| 「多元文化と未来社会」第4回研究会報告概要 |
| 男女共同参画社会から見た仏教と陰陽五行説
松本伊瑳子 |
| 「アラブ系ユダヤ人」言説の解明―21世紀の「ユダヤ人問題」の理解へ向けて―
田所光男 20世紀、「ユダヤ人問題」の「最終解決」ということが言われ、ショアーが生じ、さらに、それと因果関係で結ばれる、イスラエル国家の誕生を見た。そして、これによってディアスポラの終焉も近未来の可能性として語られるようになり、20世紀は「ユダヤ人問題」を解決したのだという印象ももたれてきた。 |
| 古典飜譯文學のハイパー・マルチメディア・テクスト化 松岡 光治 本研究プロジェクトの鍵語である「トランスレーション」および「メディア」に依據して、古典飜譯文學のハイパー・マルチメディア・テクスト化によるウェブサイト (試作品: http://www.lang.nagoya-u.ac.jp/~matsuoka/dickens/carol/carol-morita-1.html) を構築する豫定であるが、この新舊合體の試みは以下に述べるやうな二つの目的を有 してゐる。 第一の目的は、戰後の國語改革の犧牲となつた傳統的な日本語表記、すなはち史的假名遣ひと漢字の舊字體(康煕字典書體)を通して口語で飜譯された英文學の作品 (具體的には、漱石門下の森田草平が昭和四年四月に岩波文庫から出したディツケン ス作『クリスマス・カロル』)をそのまゝの形で電子化することで、原著が出版され たヴィクトリア朝初期(一八四三年)の時代精神と社會風潮のみならず、それが飜譯された昭和初期(一九二九年)のそれらをも、日本の未來社會に殘すことである。特に古い飜譯の場合、これは若い世代の讀者を國語正統表記(正字正假名、舊字舊假名)に觸れさせるといふ點で、低迷する現代日本社會の元兇の一つと言はれる「ゆとり教育」に對する批判になる筈である。ディケンズの『クリスマス・キャロル』は、 饗庭篁村が『影法師』といふ邦題で明治二十一年九月七日から一ヶ月間『讀賣新聞』 に聯載して以來、少なくとも四十二人によつて、のべ五十九囘以上も飜譯された、日本の飜譯史上稀有な作品である。從つて、單一作品とはいへ、その飜譯の變遷を考察することで、戰前戰後の國語ヘ育が飜譯文學に及ぼした影響の諸相を明らかにするこ ともできるだらう。 第二の目的は、電子化したテクストに文字、畫像、音聲、映像のファイルを組み込んでマルチメディア化すると同時に、新たに現代的な視點からの譯注を數多く施し、ポスト構造主義的概念(特に間テクスト性や脱中心化)を具現したテクストにすることにより、傳統的な讀み得るテクストと讀者の讀む行爲を根本的に變質させることで ある。また、テクストに外在するレクシとして嵌め込まれた多數の譯注は、オンマウス表示といふ最新の技術で直線的な讀みを維持させることができる一方で、從來のポ ップアップ表示や外部サイトに張られたリンクによつて非直線的な讀みを提供し、さうした脱線――開かれて終はりのないハイパーテクストの特性――によつて時には新たな讀みの中心(座標軸)を形成することになる。更に、重要な箇所にBBSを設置して 不特定多數のユーザに獨自の飜譯や解釋を提示させることにより、從來型の讀み得るテクストは讀者參加型の書き得るテクストに變質する。結果的に、このハイパー・マ ルチメディア・テクストは、消費者から生産者になつた讀者の書き込みを通して、半永久的に増殖する織物(タペストリー)となるに違ひない。 |
| 『珈琲時光』にみる東京および日本時代台湾の場所性
星野幸代 侯孝賢監督の小津安二郎生誕100周年記念映画『珈琲時光』(2003)をポストコロニアリズムおよび現象学的地理学を手段として考察したい。侯孝賢はこの映画公開に際し小津へのオマージュとして、変わりゆく日本人の価値観を底流としてディティールにこだわりながら現代日本の日常生活を切り取る、という目的をかかげている。しかし侯孝賢が映像化したものは、現代ならぬ約三十年前の日本を思わせる。感覚的に生きている子供時代、侯孝賢――および同世代の台湾人――は日本的なものに囲まれていた。彼らが自己の感覚とアイデンティティを求めて立ちかえる過去は、東京の路面電車と踏切にあり、畳と卓袱台にある。『珈琲時光』は、台湾に残された日本植民地時代の暴力の記憶の再生産の結果であり、それは、急激に開発された台北に対してある世代が感じている実存的外側性すなわち所属先の喪失感の裏返しなのだ。さらに『珈琲時光』は台湾人監督によって表象された、東京という「場所の精神」――多くの社会的、文化的、技術的変革を経ても保たれる都市のアイデンティティ――であるといえよう。 |
| 死と破壊の言説:C.シュミットとG.アガンベンの主権論をめぐって 布施 哲 90年代以降今日に至るまで、哲学者や文学者たちによる政治的諸概念についての論究が徐々に目立ってきた。もとよりそれら諸概念が西欧哲学の文法によって強固に規定されている以上、そして、あまつさえ米ソ二極による冷戦体制が崩壊し、人種、民族、領土といった古くて新しい政治的諸問題が再び前景化しているのである以上、政治/政治学に対する哲学的反省の必要性と必然性を少なからぬ人々が感じ始めたのだとしても何ら不思議はないのかもしれない。大仰な歴史の物語の終焉に代わって文明の衝突が叫ばれ、相対主義的なパラダイム概念に代わって社会の構成原理をめぐる闘争のイメージが現実味を獲得するという不幸な時代の到来により、人はこれまでの立法や司法、そして行政にかかわる様々な概念規定を、微に入り細を穿った哲学的省察によって再び解剖し、場合によってはそれらのうちのいくつかに重大な修正を施す必要に迫られるわけである。しかしながら、そうした哲学的省察のなかには注意を要するものもある。それは、そこで展開される論理や思想内容そのもののゆえにではなく、それが聞き手や読み手に対して与え得る影響のゆえにそうなのだ−すなわち、そうした哲学的省察が政治の中心部に巣食う禍々しい“本質”を嗅ぎとってみせる“政治的存在論”として受け入れられ、称揚されさえするとき、それは暴力を(したがって、つまるところ、皮肉にも政治の放棄を)シニカルに肯定する言説を容易に導き得るのである。ジョルジョ・アガンベンによるカール・シュミットの主権概念の再吟味も、そうした可能性を持ってはいないだろうか。ムッソリーニが失脚する一年前、戦時下のイタリアで生まれたこの哲学者/批評家が描いてみせる「HomoSacer(聖なる人間)」像は、あまりにタイムリーであるがゆえに今日の私たちにとってきわめて説得的であり、しかし、あまりに説得的であるがゆえに、私たちから政治的なるものに対する乾いた認識を奪い去ってゆこうとする諸力を結果的に勇気づけることになりはしないか。本研究の目的は、シュミットとアガンベンの主権論を参照しつつ、死と破壊の表象で溢れかえったこの時代における政治の意義と使命を再確認することである。 |
| (最新更新日:2005.2.25) |