HEPPENHEIM an der Bergstraße
Kreisstadt und staatlich anerkannter Luftkurort
Marktplatz und Rathaus
英国のギャスケル協会が主催するドイツにおけるギャスケル夫人(Mrs Gaskell )の足跡を尋ねる旅行(1997 年5 月6-12日)に参加した。ハイデルベルク(Heidelberg)を中心にしているのも、ギャスケル夫人が、手紙の中でハイデルベルクを描写しようとしても無駄だ "an union of all beauties" (1)(全ての美しさが一つに纏まっている)と、言っているほど魅せられて三度も訪れているからだ。
また、ドイツを舞台として、田舎町ヘッペンハイムのホテルの主人のほのぼのとしたロマンスで味付けした短篇小説「ヘッペンハイムの6 週間」("Six Weeks at Heppenheim")と、恐怖小説「グレー・ウーマン」("The Grey Woman")を書いている。
5 月6日( 第1 日目) フランクフルト空港で英国からの参加者、アメリカからの参加者と落ち合った。これからマンハイム(Mannheim)のホテルを基点とした総勢45人< アメリカから4 人、日本から日本ギャスケル協会会長の山脇博士と私、ツアーガイドとバスの運転手、あとはイギリス各地から、事務局長のリーチさんは勿論のこと、チャプル教授( 『ギャスケル夫人の手紙』の共編者) 、W. A. クレイク博士( オースティン、ブロンテ、ギャスケルの世界的著名な研究者) もいらっしゃる>のバス旅行が始る。
昼食のため最初に立ち寄ったのはベルグシュトラーセのツヴィンゲンベルクという小さな古い町で、レストランへは思い思いに入ったが英語が一言も通じない。せめてsurvival Germanだけでも覚えて来るべきであった。
5 月7 日( 第2 日目) これから、毎朝9時にホテルを発ってバスでギャスケル夫人ゆかりの地を尋ねることになる。
ハイデルベルクに着くと、ギャスケル夫人が滞在した家中央通り222 や、そこから少し移動して滞在した中央通り234 の家、「グレー・ウーマン」で描かれているネッカー川のほとりにある製粉所だった家には「あずまや」があるのを見た。
遙か上を見上げて城を見ているとどこからともなく「昨年がハイデルベルクの誕生800 年だったんですって」と説明が聞こえてきた。なにしろ人数が多いのでチャプル教授についていく人たちとドイツ語の教授ピーター・スクライン(Peter Skrine)についていくグループとに別れるが、自分の見たいものに集中していると迷子になりそうなので、私は合流した時に自然にどちらかのグループについて行くようにしていた。
マーケット・プレイスやゴシックの土台の上にバロックの建造物で現在はマクドナルドがハンバーガーを売っていたり、最初の造りが1592年の石の家は現在ホテルになっている。ここが一番古い通りと説明を受けながら見て廻った。
午後はネッカー川を逆上りネッカーシュタインナッハで下船して、坂道を上って行って教会の庭にバター・カップとたんぽぽ、白いデージーの花に似たグース・フラワーが咲き乱れているのを見ているうちに説明を聞き損ねた。
ネッカー川を下り、ハイデルベルクからバスでマンハイムに戻りホテルで 7時30分から夕食となった。食事が終わるとチャプル教授の講演があり、昼間のネッカーシュタインナッハからの川下りでハイデルベルクに近いノイベルクに位置し川沿いに見えるシュロッサー(Schlosser)<かつては修道院であったがシュロッサー家の所有となり改装し、著名な人たちが滞在している>や、ハイデルベルクで下船する少し手前で見たヴィラ・シャーロッテンベルク(Villa Charlottenberg)は1831年に建てられた。未亡人のCharlotte Du Fayは1841年ウイーンで突然亡くなった。と言うような昼間見たものをより深く理解させて下さる講演であったと思うが、朝食が7時半で9 時にホテルを出発し夕食が終わったのが9時、講演が終わったのは11時ちょっと前というハード・スケジュールなので私の頭の中はほとんど眠っていた。
5 月8 日(3日目) 午前中はハイデルベルク自由探索であった。大部分の人は城に上って行った。中庭を歩いている時、フリードリヒが妻のエリザベス・スチュワートのためにこのように直したのだと言う説明が聞こえてきた。red-sand-stoneで出来ているこの美しい城が1693年にフランス軍によって爆破されているのはいかにも痛々しい。城の最も古い部分アルテ・ハイデルベルガー・シュロスは1225年にはすでに建っていた。昨日は町から城を見上げていたのだが、今は城の上から町をまた川を見下ろしている。お姫様気分と言いたいところだが、迷子になっては大変。ギャスケルご一行様の何人かの方たちは覚えたが、周りにいる人たちは私から見れば皆外国人である。小さい子供が自分の仲間だと思って後ろについて行ったら違うグループだった、というようなことにならないように。皆様について行くとワインの大樽が設置されている部屋に来た。221 、726 リットル入ると言うが、数量を言ってもピンとこない。大樽の周りを歩き廻れるように階段の付いた台が張りめぐらされいる。見物人が引きも切らず上って行く。そして樽の方からまるで物見櫓から見ているように部屋の方を見渡している。
午後はシュヴェツィンゲン城(Schwetzingen) の見学である。バスの中でお隣に坐っていたルーシーはアメリカのギャスケル協会の事務局長でご主人と一緒に参加していらっしゃる。日本に二年滞在していたが日本語は出来ないと言われる。しかしドイツにいたこともあってドイツ語には困らないとおっしゃる。本もドイツ語で読んでいる。何でもよくご存じで「私について来れば見落としがないわよ」と、言って下さる。私がツアーの皆様について歩いているとパンフレット類を買い損なうので、買っておいて下さったり何くれとなく世話をしてくださった。シュヴェツィンゲンでバスを降りて城に行く方向の反対側の通りにアスパラガス売りの等身大のブロンズ像がある。ルーシーのご主人が、「彼女が写真を取っているよ」と、教えてくれなければ、全然気が付かなかっただろう。
ドイツに来て、日本で見かけたことのないのがアスパラガス料理である。二十センチもある白く、太く、長いアスパラガスが、バターで味付けしただけとかクリームソースをかけたものとか、茹でただけのような料理法で出される。私には珍しくもあり美味しかったので毎日のように頂いていた。アスパラガス売りがブロンズ像になるくらいなのだから特産物に違いない。
さて、城の入口では、宮殿の中を見る人と庭園を見るグループとをはっきりさせようとしてツアー・ガイドのキャロラインが人数を調べていたが、結局、宮殿の中を見るには時間が足りないと言うことで、宮殿の庭の散策だけとなった。「わぁー、なんという広いお庭なのかしら。」宮殿ホールは淡いピンク色をして弧を描いている。花壇を配した真っ直ぐに延びた道を行くと、河川の神々と題する像のあるとてつもなく広い池にぶつかる。山脇先生や一緒に歩いてきた方々と右回りに行くと中国橋が見えてきたが、それを遠目に見ながら先を行くと、アポロの神殿の前に来たので中をぐるりと廻ってみた。人は思い思いの場所で立ち止まっては、その場所をたのしんでいる。くじゃくがいたりリスが目の前にいたりする。イギリス・グループの一人が茶色のリスを見て、イギリスではあまり見かけない種だと言っていた。
マンハイムに戻る途中ライン川の上流にあるシュパイアー(Speyer)、ロマネスク様式の大聖堂に立ち寄った。1030年にコンラート二世によって建てられ、11世紀末にも19世紀中葉にも改築されたというが、とにかく大きな聖堂で四つの塔がついているのが印象的であった。
夕食の時、四人が一つのテーブルを囲み、毎回違う方と昼間見てきたことを話し合うことになるのだが、ハイデルベルク城に嫁いできたエリザベス・スチュアートがフリードリッヒと結婚した年の話になった。私には英国王室の系図が浮かんでこない。疲れた頭で「エドワード四世の娘のエリザベスは確か・・・」と、言いだしたら、「あなた混乱しているわ。それはテューダー朝よ。このエリザベスはジェームズ一世の娘よ。」それからひとしきり、三人の英国婦人は私の混乱を直して下さろうとしたので、王室の系図と年号が飛び交って、私の頭はますます混乱してしまった。
5月9 日(4日目) 今日は「ヘッペンハイムの6 週間」に関する場所を見る。
. . . when one evening I came to the village of Heppenheim, on the Berg-Strasse. I had strolled about the dirty town of Worms all morning . . . and walked through Lorsch to Heppenheim. (2)
ある夕方ベルグシュトラーセのヘッペンハイムと言う村に来た。午前中ずっと退屈な町ヴォルムスを歩き廻った・・・そしてロルシュを通ってヘッペンハイムへと歩いた。
「ヘッペンハイムの 6週間」の中の語り手はロルシュを通ってヘッペンハイムに着いたのである。ロルシュは8 世紀に建てられた修道院である。しかし、8世紀に建てられている部分は美しい正面入口だけである。赤褐色と白の模様に半分壁に埋め込んだ柱(pilaster)が印象的である。
ヘッペンハイムに着くとマーケット・プレイスにある市庁舎で市長さんに会う予定になっていたが、結婚式が何組かあって市長さんはギャスケルご一行様をすっかり忘れておられた。美しい古い建物を前に市長さんをしばしお待ちしたが、結局お目にはかかれなかった。
マーケット・プレイスからキルヘンガッセ(Kirchengasse)に入ってすぐの、階段と枝垂れた木がある踊り場のあたりから作品に描かれている景色が見える。「ギャスケル夫人はここから眺めていたのではないか」と、ピーター先生( スクライン教授を皆様は気軽にピーター、ピーターと言ってらっしゃる) はおっしゃる。
作品中の宿屋「ハルプモント」(Halb-mond)に語り手が辿り着いた時の様子は次のように描かれている。
It was a large building, with a green court before it. A cross-looking but scrupulously clean hostess received me, and showed me into a large room with a dinner-table in it, which, though it might have accommodated thirty or forty guests, only stretched down half the length of the eating-room. (3)
その宿屋は中庭が芝生の大きな建物だった。無愛想ではあるが、実直そうで小ぎれいな身なりの女主人が私を迎えて広い食堂へと案内した。部屋の半分にテーブルが置かれていたが、それでも三、四十人は坐れる大きさであった。
私たちはこの宿屋Halber Mond ( 正面玄関の壁はこのスペリング) で昼食を取ることになっている。作品に出てくる食堂ではなく新たに建て増しした大食堂でである。皆様がこの大食堂に入って行くのを確かめながら、ホテル側の入口から入り、「私は今食堂に来ているギャスケル・メンバーの一人ですが、このツアーが終わったら12日から3 日間このホテルに泊まりたい」と、言って宿の予約をした。
大食堂は大変広く、しかも客でごった返して(ビッフェ・スタイルだったので人が行き交って) いた。私たちは45人いるがそれも他の客の中の一部にしかすぎないほどの盛況ぶりであった。8人掛けのテーブルで、たまたまピーター先生と同じテーブルだったので、「お時間のある時に"The Grey Woman"の中の単語の発音を教えて下さい」と、お願いしたら昼食の後すぐに教えて下さった。発音のみならず意味も、例えば"Strasburg" の"burg"は"fortifyed place" と教えて下さった。
マンハイムに戻る前にワイナリーに寄ってワインの試飲をした。ヘッペンハイムはぶどうの産地なのである。作品中のぶどうの収穫の情景を実際に見てみたいものでる。
5 月10日(5日目) ヴォルムスに着いた。バスを降りる時、ピーター先生が先に引用(2 )した「ヘッペンハイムの6 週間」 の一節を口ずさみながら、最後に"the dirty Worms" だってと言う調子で降りて行かれた。私はここで使われている"dirty" (汚い、不正な、退屈な)の意味を確かめたかったが、私の前に何人もの方が降りられたので教えて頂くチャンスを逸した。
ヴォルムス大聖堂は、正面の祭壇がまばゆいばかりに金色の天使や聖人の彫刻で飾られていた。壁面はレリーフ、彫刻など短い時間では何を現しているのか鑑賞する間もないので、ただ雰囲気だけを味わうことにした。ブース( 透明の囲いがしてある )で英語の案内書を8DM ( ドイツマルク) で売っているとリーチさんが教えて下さったので、ブースの中にいる男に20DM札を渡すと10DM札を一旦台の上に置いてからしまい込み2DM コインを私によこしたので、10DM足りないと言おうとしていると、気がつかなかったのだが、ブースの中の男の側に立っていた作業服を着たドイツ人が、何やらその男に言っている。その男は言い訳らしきことを言っているようだが、ブースの中なので声は聞こえてこない。それから私に10DMをよこした。こんな立派な大聖堂の中で・・・。ギャスケル夫人の言う "the dirty town of Worms" は夫人が何か嫌な経験をしたのかしら。
ヴォルムスはローマ時代から近隣の町の中でも、政治の中心に据えら、ローマの衰退と共にその影響を受けた。中世にはヴォルムスで開かれる帝国議会(Diet of Worms)が有名で100 回以上も開かれている。ローマ法王を真の信仰に反していると楯突くルターをカール五世はヴォルムスの議会に召喚したが、ルターは所信を曲げなかった。
大聖堂を見てからすぐ近くの広場で一番大きなルター像というのを見た。
午後は自由行動なので、バスの中で、ハイデルベルクの「哲学者の道」を歩くと言っている人たちに私も仲間に入れてと頼んだ。バスはマンハイムの駅前で私たちを降ろした。私はこのツアーが終わったら一人でドイツに残るつもりなので、汽車に乗る練習をしておかなければならない。なにしろドイツに着いて以来、電車とかバスのような公共の乗物に乗っていない。「哲学者の道」をぜひとも歩きたい、というのではなく、ぜひとも鉄道を利用しておきたいのである。「お仲間に入れて」と、頼んだ時に「うーん、もう5人行く人数が決まっているから、、、」と、言われた。「ぇーえ、じゃ、どなたについて行こうかしら。」なにしろ私は東京に居てさえ電車にうまく乗れない人なのだ。そうこうしているうちに、「一人行かなくなったから」と、いうことで、パット、ジーン、アイリーン、パット・チャフィと私の5 人が一緒に行くことになった。電車の中で皆に聞いて分かったのだが、何故5人にこだわっていたのか、マンハイム+ハイデルベルクの運賃は往復一人14.50DM なのだが、土、日の週末特別切符は5人で一人分の料金なのだ。
「哲学者の道」からハイデルベルクの町を見渡すと、2 日目に町から哲学者の道や城を見たり、2 日目に城から見た時とは違って、ハイデルベルクを鳥瞰した、やっと方角が分かったという気がした。ご一緒した皆様はイギリスのそれぞれの地区の「歩こう会」に所属していて、歩くのが大好きな方たちなのだ。「あなた大丈夫」と私のことを気づかって下さる。途中一休みしてアイスクリームを頬張ったり、". . . unhappy daughter of Prince Elector" と刻まれた石碑を見て、「お姫様に生まれながら不幸だったなんて、本当に不幸なことね」などと哲学的でないおしゃべりをしながら散歩をたのしんだ。鉄道の駅に戻るのにはバスと市電を乗り継いだ。しかし、皆、乗り方が分からなかった。その時リーダーシップを発揮したのは、パット・チャフィで彼女の判断に任せて、皆、彼女の後にぞろぞろとついて行った。また、乗り方を聞いた女の子は大学生でとても親切に説明してくれた。
夕食前にピアノの演奏があるから聴きそこなわないようにとのことだった。ジーン(と言うお名前だったと思う) がピアノを弾き、チャプル先生御夫妻、ピーター先生御夫妻、パムが歌われた。「ローレライ」「埴生の宿」("Home, Sweet Home") など私にも分かる曲や、ワルツ( ギャスケル夫人の好きな曲を集めたMusic Bookから、これは「哲学者の道」を一緒に歩いたジーンが教えてくださったのだが) 、また、「ヘッペンハイムの6 週間」の中で収穫を祝って歌った讃美歌(4 )も歌われた。チャプル先生もピアノをお弾きになった。
11日( 6 日目) ワインの町セント・マーティン(St. Martin)に立ち寄って、古い町並みを見てから皆でバスの待っている所まで歩いて行った。途中で昨日「哲学者の道」に連れていってくれたパット・チャフィと一緒になった。彼女が古い家の窓の回りの15センチメートルくらいある壁の厚みを指して「これがwindow sill(窓台) よ」と、言ったので、私は、今がチャンスとばかりに「『ペンモーヴァの泉』("The Well of Pen-Morfa") の中で". . . standing on the lintel"(5) という表現があったけどunder the lintelかon the threshold なら分かるけど、この表現が分からないのよ」ときいた。彼女はしばらく首を傾げていたが、「オックスフォード辞典は引いたの」「いいえ」と、私が言うと、彼女は「国に帰って分かったら教えてあげる」と言った。
バスはババロッサのトンネルとリチャード・ライオン・ハートのトンネル( リチャードが1193年に捕らえられていたTrifels 城に近い) と呼ばれているトンネルを抜けて、「グレー・ウーマン」のモデルの城Berwartsteinに着く。切り立った岩山の上に造られた城で四方は小高い山に囲まれている。
「グレー・ウーマン」は美しさのため見初められて嫁にきたアンナが、夫は人殺しを何とも思わない残酷な盗賊と分かり、身の回りの世話をする女中アモントに助けられて逃げ回る。その恐怖と苦労のため白髪(グレー・ウーマン)になってしまう話である。
アンナは自分宛の手紙を探しに夫の私室にいる時、夫とその伴の盗賊たちが帰ってくる。自分の部屋以外に行くことを禁じられていたアンナはとっさに厚いテーブル掛けのかかったテーブルの下に身を隠すと、夫は今殺したばかりの死体をどさっと置く。夫たちが部屋を出ていくと、灯を取りに行っていたアモントが、様子を察知して、真っ暗な廊下をアンナの手を引いて部屋にもどる。身支度をしたアモントに助けられて、二人は部屋の窓から抜け出すとアンナが夫に頼んで作った彼女用の小さな庭に出る。二人は手足を擦りむいたり躓きながらも声を発てずに逃げる。
作品を読んだ時に、切り立った城の窓から逃げて庭に出られるという描写をいろいろイメージしたが理解出来ないでいた。こうしてモデルとなっている城を見ると、土台になっている岩に1メートルばかりの穴が幾つかある。首を突っ込んで覗いたが斜めになっていて上まで見えない。この穴は建物の出口だか窓だかまで続いている。要するに窓から滑り台のようにして城の外にでる。そして外階段を数段降りると城の反対側に売店があり、城との間は平らな空間になっている、ここがアンナの庭なのだ。理解出来なかった城の窓から逃げて行く描写は一目瞭然となった。
城はヴィクトリア時代に出火したので、中の造りはヴィクトリア時代である。この火事の時逃げ場を失って、お姫様がテラスから飛び下りたという。時々お姫様らしき幽霊が現れるのだ。昼間なので幽霊の話を聞いても現実味がなくて怖くなかった。しかし、アモントがアンナの手を引いて手さぐりで真っ暗な廊下を行く描写と同じように、私たちもごつごつした岩肌を探りながら、足下もでこぼこしている非常に狭い真っ暗な廊を歩いた時には一人ではとても怖くて歩けないと思った。廊を抜けると薄暗い地下牢に出た。薄明かりは鉄の桟を通して入ってくる外の明かりである。夜、夫たちの残虐な行為を知って、逃げ出すアンナたち二人はどんなに怖かったことだろう。
次にアルザス地方のヴィセンブルグ(Wissembourg)の町に入った。チャプル先生御夫妻と山脇先生と何人かの方たちと古い家の壁に吊るしてある、刈り取ったぶどうを入れる大きな木製の筒状の背負子を見たりした。チャプル先生が説明して下さった。
帰路、廃墟となっているアルトダーン(Altdahn) を見て廻り、そこからダーンの町を見下ろした。
夕食の時、W. A. クレイク先生と同じテーブルになった。先生はマッシュルーム・カットをしたとてもスリムで、ちょっと神経質そうな美しい方だ。「哲学者の道」を一緒に歩いたパットも同じ席だ。私は、ギャスケル夫人の生い立ちや、父親の経歴に興味があり、継母の影響などを言った。先生は「作品の中で継母が嫌いとはいってないでしょ。経歴よりもまずは作品よ」、パットも「嫌いとは書いてない」と言う。確かに嫌いとは書いてないが実生活から受けた影響は作品の行間に滲み出ていると私は思う。新たに課題を頂いたことになった。
12日(7日目) 今朝で皆様ともお別れである。私以外の方はバスに乗るのでバスの前に立ってお一人お一人にさよならを言った。「次はパリね」とか、"You are most elegant."(エー、私の人生でエレガントなんて言って頂いたことはない。いつも穴の開いたジーンズでフーフー飛び回って暮らしている。恐らく、夕食の時のために、黒のロング・スカートを二枚持ってきたのがよかったのに違いない) と言って下さった。クレイク先生は両頬にキスをして下さった。
一人になって、いざヘッペンハイムへ。 ハルパーモントホテルに着くと、9 日の昼食時に皆様が「あの人がオーナーよ」と、言っていた背の高い人物が現れたので、「オーナーさんですか」ときくとフロント・デスクの女の子が「そうだ」と言う。彼は英語が話せないし、私はドイツ語が全然ダメだ。デスクの側の壁に掛かっている半月の絵と一緒に彼の写真を取らせてもらった。すると太陽と半月をデザインしたキーホルダー、太陽の部分は24金のメッキを施し半月の部分が本体から外れてキーが使えるようになっているしっかりした造りのものをプレゼントしてくれた。「ワー、まだ宿泊費も払ってないのに、これもギャスケル夫人のおかげかしら。」その日は町の中をとりとめもなく歩き廻った。
作品で村は次のように描かれている。
It was built by the great Kaiser karl. And there was the Castle of Starkenburg, too, which the Abbots of Lorsch had often defended, stalwart churchmen as they were, against the temporal power of the emperors. And Melibocus was not beyond a walk either. ( 6)
それは( 教会) カール大帝が建てた。シュ ターケンブルク城もあり、この城は、時の 皇帝たちの権力と戦った不屈の魂を持った 聖職者、ロルシュの修道院長たちが守って きたものだ。それにメリボークスもごく近 くにあった。
13日 シュターケンブルクに登った。歩きで30分位と聞いてきたが私の足でのんびり登って45分位かかった。廃墟になっていると思って恐る恐る登って行くと子供たちの声がきこえてきたのでとてもほっとした。小さな子供たちが遊んでいる。城の塔からでないと木に邪魔されて町を見下ろせない。城のドアを開けると城の外にいた青年が、ここはユースホステルだから中に入れないと言う。どうりで子供が大勢いるんだ。少し離れた所に休憩所があるが午後2 時にならないと開かない。まだ午前中なのでとても待ってはいられない。子供たちのおかげで、思っていたのとは全然ちがう明るいイメージを抱いて山を下りはじめた。途中、ぶどう畑の手入れをしている農夫に「こんにちは」と言うと、仕事の手を休めて「どこから来たのか」と言うお決まりの会話になった。彼は英語の単語が少し分かる位だったが、そばに生えているイラクサを下の方から上の方に向かって持つ分には大丈夫とやって見せてくれて、若い葉っぱは食べられると言う。確かに『メアリー・バートン』の中でマーガレットが歌う「オールダムの機織り」の歌詞に"We lived upo" nettles, whoile nettles wur good,"(7)(イラクサが食べられる間はイラクサを食べた) がある。"wur good"と言うのは葉が出たてのことなのか。それから手近かにあるアーモンドの木の小枝を折って見せてくれた。町を見下ろすとカール大帝が建てた教会がよく分かる。左手に新しい野外円形場があり、一度だけダンスと音楽の会が催されたと言う。私の泊まっているハルパーモントはと、右手の方向を探したが同じような建物がありすぎてはっきりしない。すると彼は車の中からロシア製の望遠鏡を持ちだして見せてくれた。ホテルの名前もよく見える。お礼を言って別れた。
教会のそばにある階段( ツアーの時見た) の辺りに来た。小さな子供を遊ばせている母親がいたので話しかけると、幸いなことに英語が返ってきた。そこへ彼女の友人が現れ、私はなぜハルパーモントに泊まっているかを話した。「あのホテルは由緒があるので市(county) が持っていて、1971年に直して、1975年から1986年までホム夫妻(Homm) 1986年から1995年までソネック夫妻(Soneck)、今はコッホ氏(Koch) が市から借りて営業しているのよ。」「じゃ、あの背の高い人はオーナーじゃないの。」「彼はギリシャ人のマネージャーよ。」こんなに年号まではっきりと教えられるのは、彼女がホムさんの娘だったからなのだった。彼女は例の階段から一軒おいた隣で「A bis Z 」(飲むこと、食べることならA からZ までなんでもある) というレストランを経営している。
夕食は「A bis Z 」に行った。庭のテーブルでアップル・ワインを飲みながらシュターケンブルクを眺めていると、これぞまさしく小説の中の光景だ。山を登って行く人、畑仕事をしている人がよく分かる。農夫の使っている芝刈機の音もはっきりと聞こえてくる。小説では、秋の取り入れの時期なので、ぶどうの木も葉ももっと大きい。だから語り手は山の中腹から人々の動きを描き、今私の坐っている辺りから収穫祭の様子を描いている。讃美歌が聞こえて、牧師が皆を祝福しているのは山の中腹の道辺りではないか。そうだとすれば葉が生い茂っても皆の姿はみえるはずだ。
14日、メリボークスの行き方をホテルの女の子に聞くと、若い子たちは名前すら知らない。中年の作業服を着た従業員が、何もない、ラジオの中継基地か何かの山だからつまらないという。いや、そのつまらなさを実感したいからと行き方を教えてもらった。バスの中で隣に坐った女性にメリボークスに行くと言ったら、ホテルの従業員と同じことを言った。「どうしても行きたいのなら次のツヴィンゲンベルクからが一番近いから、店でタクシーを呼んでもらいなさい。」
山に登る前に町を見ておこうと思って歩きだしたら、見たことがある。何のことはない、ツアーの時最初に立ち寄った町だった。名前を聞いた時には同じ町だとは気がつかなかったのだ。
タクシー運転手によると山は歩いて2時間くらい、頂上には第二次大戦以後、アメリカ陸軍基地があり、徐々に人がいなくなり、現在は夜になると明かりが点滅する塔があるだけだと言う。なるほど、この山に登ったことのない人は、ラジオかテレビの中継基地と思うはずだ。頂上に着いた。確かに鉄塔しかない。周囲を見回しても繁った木にはばまれて下が見えない。木の間からわずかに町の家々の屋根が見えただけだ。ツヴィンゲンベルクは古い家並み、隣町のアウワバッハは城があるので車はアウワバッハに下りた。ギャスケル夫人はアウワバッハとツヴィンゲンベルクを代表してメリボークスと言ったのかもしれない。タクシーを降りて、同年輩の女性に道を聞いたら、車で案内してあげると言って、かつての大公の城と庭、召使の住んでいたところ、ここが厩だったと、教えてくれた。教会にも連れていってくれたが、ここの庭にもグース・フラワーとバターカップが咲き乱れていた。
15日の朝ヘッペンハイムを発ってスイスのザンクト・ガレン、オーストリアのザルツブルクを見て23日に帰国した。
パットから手紙が届いていて「フランス語の古語でLintelはthreshold の意だ。ラテン語のLimen はthreshold を意味した」と。ああ、なんと誠実な方だろう。彼女は帰国して5日目にこの手紙を出しているのだ。
マーガレットからはポーティコ図書館のパンフレットやナッツフォードのカードが届いた。恐らく私がザンクト・ガレンで図書館を見る予定だと言ったのだろう。
ギャスケル夫人という共通の研究テーマのお陰で全行程たのしく、また、皆様に色々教えて頂いて、他の旅行では得られない収穫を得た。ご親切にして下さり、ご教示してくださった方々に厚く御礼申し上げます。
1) The Letters of Mrs. Gaskell , ed. J.A. V. Chapple and Arthur Pollard (Manche ster:Manchester Univ. Press, 1966), p. 42 (Letter 15).
2) Elizabeth Gaskell, "Six Weeks at Heppenheim," A Dark Night"s Work and Other Stories , The World"s Classics( Oxford: Oxford Univ. Press, 1992), p. 196.
3) Ibid., p.196.
4) Ibid., p.227.
5) Elizabeth Gaskell, "The Well of Pen- Morfa," The Works of Mrs. Gaskell , Vol. 2, (New York: AMS Press, 1972), p. 262.
6) Elizabeth Gaskell, "Six Weeks at Heppenheim," A Dark Night"s Work and Other Stories , The World"s Classics (Oxford: Oxford Univ. Press, 1992), p. 209.
7) Elizabeth Gaskell, Mary Barton , The World"s Classics(Oxford: Oxford Univ. Press, 1987), p.38.
Gaskell, Elizabeth, "The Grey Woman", A Dark Night"s Work and Other Stories , The World"s Classics. Oxford: Oxford Univ. Press, 1992.
相川暁子氏の連絡先
〒157 東京都世田谷区成城4-11-3 Tel. 03-3484-0680
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