エリザベス・ギャスケル 著

「ヘッぺンハイムの六週間」

相川 暁子 訳


HEPPENHEIM an der Bergstraße
Kreisstadt und staatlich anerkannter Luftkurort
Marktplatz und Rathaus

In the Steps of Elizabeth Gaskell に参加して


  オックスフォード大学を卒業して弁護士の修業のためにロンドンへ移り住むまでの数カ月の休暇 を、私は旅行をして過ごそうと思いたった。父が私に残してくれた三千ポンド程の遺産のおかげで 、ロンドンでの生活はあまり贅沢はできないまでも、下宿代や、教えてもらうことになっている著 名な弁護士への謝礼などの費用は、利子だけで十分賄える筈であった。大学在学中の費用は利子の 分を上回って借金という形になっていたので、旅行の費用は、五十ポンドだけ預金を取り崩して当 てることにした。それを使い果たしてしまったら、旅行を切り上げてロンドンに行き、リンカンズ ・インにある某氏の弁護士事務所に近いラッセル・スクエア辺りに下宿を見つけようと思った。 パスポートの申請で、ロンドンへ行ったが、受け取るまでに一日あったので、どの街に住むか調べ に行ってみることにした。良さそうだと思う所を地図で当たりをつけてから出かけたのだが、オッ クスフォードの美しい街並みに親しんでいた田舎者の私には、どこも冷たく感じられた。こういう 味気ない、陰鬱な場所に何年も住まなければいけないのなら、その五十ポンドを何とか節約して、 できるだけ長く旅を続けたいと思った。少なくとも百日くらいは続けたいものだ。私は足は達者な 方だし、ベッドや食事は、粗末でも気にならないし、ドイツ語とフランス語なら誰にも負けない自 信があった。だから、皆の行く様な英語の通じる高級ホテルに泊まる必要もないと思った。
 これから書き記るそうとしているちょっとした話の中で、私は、単に同情する傍観者という役廻 りでしかないのだが、とにかくその発端となった旅に出るまでの経緯についてお話しして来た訳で ある。
  私はフランスを通ってスイスへと旅してきて、そこで歩き疲れてしまったので帰国の途についた 。ある夕方ベルクシュトラーセのヘッペンハイムという村に着いた。午前中ずっと退屈な町ヴォル ムスを歩き回った後、安ホテルの食堂で食事を取り、ライン川を渡ってロルシュを通り、ヘッペン ハイムへと歩いて来た。異常に疲れて体がだるかったが、村道のでこぼこ道を、教えてもらった宿 屋へと我が身を引きずるようにして行った。その宿屋は中庭が芝生の大きな建物だった。無愛想で はあるが、実直そうで小ぎれいな身なりの女主人が私を迎えて広い食堂へと案内した。部屋の半分 にテーブルが置かれていたが、それでも三、四十人は坐れる大きさであった。その部屋の各隅には 窓があり、二つの窓は建物正面に向いていて、そこにはすでに夕暮れの気配がしていた。反対側の 二つの窓は部分的にドアになっていて、広い庭に面していた。その庭はきれいに刈り込まれた果樹 類や野菜の畑になっていて、バラの茂みと、ひとりでに生えたいろいろな花もあった。その部屋の 各隅にはストーブがあるので、この部屋はもともと二つに仕切られていたのだと思う。私が入って きたドアはちょうど真ん中にあり、その反対側は大きな寝室へと続くドアになっていて、女主人は その夜泊まる部屋だと案内した。
 掃除の行き届いたその寝室は魅力的であった。しかしあまりのきれいさに居心地が悪く、私は寝 室を出て、庭に面した窓から差し込む傾いた太陽の名残の暖かい日差しの中に坐った。自分でも我 が身の『ものぐさ』ぶりにびっくりしたが、一旦坐ったら動くのはおろか話すことさえおっくうに なる程心地よかった。女主人は私の夕食の注文をとってから出て行った。太陽が沈むと私は急に寒 気を感じた。がらんとした広い部屋は寒々としていた。誰かが入って来た。夕日の紅い光の中に居 た私は目が慣れていないので、ただ影としか捉えることができなかった。
 それは私の夕食を用意しにきた娘だった。彼女は大きなテーブルの一方の隅にテーブル・クロス を敷き始めた。私のそばにもっと小さいテーブルがあった。私はまるで気を失いかけている人のよ うにか細い声をふりしぼって彼女に呼びかけた。
 「こっちのテーブルでは駄目ですか。」
 彼女は近づいた。私のところは暗かったが彼女の姿は照明に浮かび上がっていた。背が高く丈夫 な身体つきをした若い娘であった。赤銅色に日焼けしていて優雅さはないものの、賢く、真面目そ うな好感の持てる美しい顔だちだと思った。しかし、後によく観察してみると決して整っている訳 ではなかったが、白い歯と、悲しみに沈んだ青い大きな瞳、ていねいに編んで二本の銀のピンで留 め上げた明るい茶色の豊な髪は、初めて出会ったこの夜に気付いた。しかし、後で気付いたものも あるかもしれない。彼女は私が言った場所にテーブル・クロスを敷き始めた。震えが全身を走った 。彼女は私を見てすぐに言った。
 「お風邪ですか、お客様。ストーブをつけましょうか。」
私は何だかいらいらしていた----普段はそんなに短気ではないのだが、重い病気のなり始めであ った----心配してもらうことさえうっとうしい状態であった。ストーブのことで食事が遅くなるの は嫌だった。食べれば直ると思っていた。それに彼女の動きがひどく気に障っていた。
 「いや、早く食事にしてください。」
一瞬彼女の静かで悲しげな目と私の目が合った。しかし彼女は、素っ気ない私の答え方に表情を 変えることはなかった。ヘッペンハイムでの最初の晩のテクラを今でも思い出すのはそんなことで ある。
  私は夕食を食べたように思う。少なくとも食べようと努力したと思う。それから床についたにち がいない。数日後産まれたての赤んぼのように弱々しく、又疲れた手足中に過ぎ去った痛みの感覚 を伴ってベッドに寝ているのに気付いた。熱にうなされていた病人のように記憶もあいまいで思考 能力も衰えていた。何という国の何という町の何という家の部屋だったか、家具が半分しか入って いない大きな部屋の見知らぬベッドに、どうして私が寝るようになったのか。思い出そうという気 にもならなかった。しかしそのうちにシーツの目の荒いこと、きれいに洗濯されていること、染み 込ませてある香りは、私の親しんでいたハーブであることなどには気付くようになった。次第に私 はベッドから見える物を観察し始めていた。誰かが付きっきりで私の看病をしてくれているようだ 。ベッドの上に朝日が当たらないように窓には覆いがしてある。つい今し方くべたと思われる薪が 大きな白い陶制のストーブの中でパチパチ音をたてている。
 ドアがゆっくり開いた。何故か分からないが衝動的にまだ眠っている振りをした。しかし薄目を 開けて様子を窺っていた。二人の男が爪先立ちで入って来た。音を立てまいと注意しても靴音は聞 こえて来た。最初に入って来たのは三十から四十の年令でシュヴァルツヴァルトの百姓の服装をし ていた。青い色の上着と半ズボンは古い型ではあったが丈夫で質のよい生地であった。続いて入っ て来たのは、もっと年配の男だった。黒づくめで、仕立ても良い洒落た身なりであった。もっとも 、後に擦り切れていることが分かったのではあるが。
 ドイツ語でささやいていた最初の言葉で彼らが誰であるかがわかった。この宿の主人と往診を頼 まれた村の医者であった。医者は私の脈をみてヨーシとばかり繰り返しうなづいた。それは私がだ んだん良くなっていることを示していた。私自身に実感はなかったが、しかし、宿の主人は心から 喜んでいるように思えた。彼は私が実の弟ででもあるかのように感謝の気持ちを込めて先生の手を 握った。二言、三言低い声で話しをしてからある質問がされたが、宿の主人には分からないことの ようであった。彼は部屋を出て一、二分すると戻ってきた。彼の後について来たテクラに医者が質 問をし、彼女は静かにはっきりと答えた。それは彼女がどんなに注意深く私を見守って看病してく れたのかを示すものであった。それからテクラは部屋を出て行った。まるで一刻一刻と事実をつな ぎ合わせる力が頭に戻ってくるかのように突然その力に促されて目を開け、出来るかぎり丁寧なド イツ語で何日であるかを尋ねた。私はヘッペンハイムに着いた日をはっきりおぼえていた訳ではな いが、九月の初旬だったことは分かっていた。医者は非常に満足そうに再び無言でせわしくうなず いてから、驚いたことに、ゆっくりではあるが上手な英語で答えた。
 「ねえ、君、九月二十九日ですよ。神様に感謝しなくちゃね。君の熱は二十一日続いたんですよ 。もう少し辛抱して安静にね。ご主人や皆が世話をしてくれますからね。辛抱が肝心ですよ。英国 にご親戚がいらっしゃれば君の健康状態をお知らせしますが。」
 「私には近い親戚はおりません」と、答えたのだが、何故か父や母や妹と居た頃の情景が目に浮 かんで、思わず涙ぐんでしまった。
 「さあ、さあ、元気を出して」と私を励ますと、宿の主人を振り返り、今度はドイツ語で、テク ラにおいしいスープを作って持って来させる様、その後は薬を飲ませてゆっくり休ませてやる様に と頼んだ。数日の間は、付きっきりの看病と規則正しい食餌療法が必要で、二十分おきにワインか スープを少しずつ取らせるようにと医者は付け加えた。五十ポンドで、できるだけ長く旅を続ける ために、無理して歩いたり、簡単な食事で済ませたことが、結果的には、とんでもない不経済なも のになってしまったという考えが、朦朧とした意識の中にぼんやりと途中まで浮かんだが、やがて 、まどろみの中に消えてしまった。唇に触れたスプーンの感触でふと気が付くと、私に食べさせて いるのはテクラだった。やさしく、ゆっくり、丁寧に一さじ一さじ私に食べさせる時の彼女のやさ しい、真剣な眼差しは、母の面影に重なって行ったが、今度は本当に深い眠りに引き込まれて行っ た。次に目覚めた時は夜だった。ストーブには火が入り燃える薪がパチパチと気持ちのよい音をた てていたが、私には小さな鉄のふたの隙間から隙間の形にみえる赤い炎だけを見ることができた。 私の左側のカーテンを引いていない窓から紫色の厳かな夜がのぞいていた。少し横を向くとテクラ がテーブルの近くに坐って、大きな白い布を一心に縫っているのが見えた。ロウソクの芯を切るた めに中断することはあったが、すぐに縫い物に戻った。しかし二度程、手を止めて、暗闇に視線を やったまま、思い詰めてすすり泣いているのを見かけた。嗚咽の声にふと我に返って大きな溜め息 をつき、前にもまして縫い物に没頭する。彼女の物静かな様子は私を落ち着いた気分にしてくれた し、彼女の動きは、ぼんやりと夢の中の出来事のように心地よかった。ちょうどその時の私は思考 力のないただの生き物のようで、彼女の悲しい思い出の表情や、溜め息によってひどくかきたてら れる同情とか、あるいは好奇心さえも持たなかった。
 しばらくして彼女はそばのテーブルの上の時計を見てちょっとびっくりした。片手でロウソクを 覆いながらそっとベッドのわきに来た。私が目を開けているのを見るとストーブの上に置いてある 深皿の処に行き、それから私にスープを飲ませた。こうしている間彼女が話しかけることはなかっ た。医者の往診の後、何度もこうしてくれた筈であったが、はっきり意識できたのは、今回が初め てであるように思えた。彼女は頭をのせている枕の下に腕を入れて私をほんの少し持ち上げた。彼 女の支え方はどんな男性にも劣らぬ程しっかりとしていた。一言も言葉をかわさずに彼女は自分の 仕事に戻り、私はまた眠りに着いた。
 再び目覚めた時は真昼だった。部屋を暗くするために掛けたショール----夜、窓を見た時には確 かそこになかったように思うが----そのショールのわきの隙間にしのびよる外の庭ののどかな雰囲 気が分かった。私の看護婦は何と思慮深く、心やさしい働き者なのだろうか。
朝食は女主人が持ってきてくれた。この客扱いの良い宿に私が着いた折に迎えてくれた人だ。彼 女が親切にしてくれようとする気持ちは分かったが、病人には気に障ることがいくつもあって看病 に向いているとは言い難かった。彼女の靴のキュキュという音や、サラサラという衣ずれの音が耳 障りであったし、彼女が、こんなに早くよくなっておめでとうと言って私の素性についてあれこれ 尋ねるので、返事をするのもおっくうだったし、そのため食事の遅れることにも、ひどくいらいら した。主人の方はまだましであったが、彼女と同様彼の靴もキュキュと音がした。私は少しなら話 しもできるまでに元気を取り戻していたので、こんなに親切にしてもらっているのにお礼を言わな ければ失礼に当たると思った。
 「ずっとご迷惑をおかけしてしまって。本当にありがとうございます。お礼の申し上げようもあ りません」と、言った。
彼の大きな立派な顔が赤くなり少しもじもじしながら、
 「いや、これでよかったのかどうか。大したこともできなくて」と、その地方のやわらかいドイ ツ語が返ってきた。
 「出来ることをしたまでです。一年中で一番忙しい時期なのでありがたいとは申しませんが」と 言って、自分の表現が誤解されたかもしれないと心配するかのように少しぎこちなく笑いながら、  「あなたにとっても、お国からこんなに離れて寝たきりというのは、ありがたいことではありま せんよね」と、付け加えた。
 「ええ、全くです。」
 「今申し上げた方がいいと思いますが、あなたの身分証明書と荷物を改めさせてもらいましたよ 。とても具合が悪かったので、身元が分かれば親戚の方にお知らせした方がよいかと思ったのが一 つと、それに下着類が必要だったのです。」
 「私は今あなたのものを着ているのですね」と、シャツの袖に触れながら私は言った。
 「そうですよ」と再び少し顔を赤らめながら言った。「テクラにタンスから一番上等なのを出す 様に言ったのですが。あなたご自身のものより粗末だとお気付きでしょうが。」
 私は返事をする代わりに、ベッドのわきにのせている彼の大きな日焼けした手をそっと握った。 彼は骨が砕けるのではないかと思うほど、ギュッと手を握り返してきた。
 「失礼」と彼が言ったのは、突然の痛みをこらえかねた私の顔付を誤解したからだ。「しかし死 ぬかも知れないと思っていた人が、良くなってくるのを見ていると、本当に親しみを感じてくるも のなのです。」
 「私の親だって、あなたと奥様や、テクラさんや、腕の良い先生のようには親身になって看護し てはくれなかったでしょう。」
 「いや、私は妻を亡くしましてね。」彼はくすり指にはまっている大きな結婚指輪をぐるりと廻 しながら言った。「私の姉がやってくれているんですよ。家のことや、子供の世話はね。使用人は 他にもいるんですがテクラは家事手伝いの方もやってくれますし。まあ、ありがたいことに、私に は、土地も家畜もぶどう畑もあるので生活は楽なんです。じきに収穫期にもなりますので皆が村に やってきます。そしたらあなたも私のぶどうを見にいらして下さい。私はオーデンヴァルトにも『 狩猟場』を持っていますから、元気になったらいつか私と一緒に『のろ鹿』を撃ちに行きましょう 。」
  私が歓迎される客であるように思わせようと善良な彼は心をくだいた。しばらく経ってから医者 から知らされたことだが----私のわずかな五十ポンドはほとんど使い果たしていたので----必要上 調べた私の衣服と身分証明書は財産がほとんどないことを示していたので、主人と医者は私が貧乏 であると信ずるに至ったのだった。それはさて置き、今まで述べたことから、この宿の主人が、い かに誠実で親切で正直な人であるか、ということはお分かりいただけたと思う。ところで、これか らは彼のことを実名でフリッツ・ミュラーと言った方がいいだろう。医者の名前はヴィーダーマン である。
 フリッツ・ミュラーさんとのこうした話ですっかり疲れたが、ヴィーダーマン先生がいらして私 がずっと良くなっていると言われた。それからその日一日は前日とだいたい同じように、おとなし く食事を食べさせてもらい、できるだけ横になって眠るようにとのことだった。天気の良い暑い日 だった。私は外気が恋しくなっていた。新鮮な空気をドイツ人の医師は処方していなかったが、私 の願いはどうにか聞き入れてもらえた。朝の間、前面の中庭に面している太陽が差し込む窓を少し 開けてくれた。その窓からは活き活きとした生活の響きが聞こえて来た。私はうれしくなって聞き 耳をたてた。雌鶏のクワックワッという声、雄鶏が一粒の大事なとうもろこしを見つけた時の喜び の鳴き声、繋がれたロバの動き、窓のしきいにとまった鳩のクウクウとかヒューという声は、私の 想像力をかき立てるのにぴったりの音であった。時折荷車や馬車がやってきた。この音には聞き覚 えがあった。私の居るこの『半月亭』という宿にやって来る時でこぼこ道を登りながら聞いたもの だ。それから宿の中であわただしい音がして、きびしい命令調でいつものようにテクラが呼ばれた 。小さな子供たちの足音も時々聞こえた。一度は、子供が過ってけがをしたようで、かん高くて悲 しげな、かわいらしい声で「テクラ、テクラ、ねえ、テクラったら」と呼び続けていた。午前中に 、ここの女主人は私に必要な世話をしにきたが、私に食事や薬をくれたり、私の部屋を整頓し、移 り行く日光と共に臨時のカーテンを動かして光の調節をするのは、常にテクラだった。まるで私に 仕えることがテクラの唯一の仕事であるかのようにいつもあわてず丁寧であった。ある時テクラが 私の部屋で仕事をしているのもお構いなしに、女主人は、ドアの開いている向こうの食堂から、押 し殺してはいるがきびしい口調で彼女を呼びつけた。またある時などは、客室のシーツを取り替え るのにミュラー嬢自身が鍵をどこかに置き忘れたのにもかかわらず、まるでテクラの責任ででもあ るかのように怒鳴り散らしているのだった。
 夜が来た。日々の生活の音は静寂の中へと消え去った。子供たちの声はもはや聞こえず、家禽は 皆ねぐらに、牛馬は厩へ、そして旅人たちは宿に入った。テクラがそっと静かに私の部屋に入って 来た。かいがいしく私の世話をしてくれた後、いつもの椅子に腰掛けた。日没から日の出までの間 は、私が一人とり残される最も退屈な時間だった。しかし前の晩のことであるが、お恥ずかしい話 、私はこの若い女性の様子をずっと観察してしまったのである。英国の使用人流に言えば、一日中 働いて、夜また私の世話をするそんな日が幾晩も続いたからであろう。疲れきった彼女が頭を垂れ て、遂にはテーブルの上に広げた白い縫い物の上に置いた腕に頭をのせるのを見て、私はほっとし た思いがした。テクラは眠った。私も眠った。ふと気がつくと、夜が明けたらしく、しのび込む薄 明かりにランプが青白く光っていた。テクラはストーブのそばに立って、私が起きた時に飲ませる スープを用意していた。彼女の顔はベッドの方を向いていたが、私の目が半ば見開いているのには 気付いていない様子であった。それから彼女は手紙をゆっくり読み始めた。何度も読み返したもの のようで、一字一句に至るまで覚えているその文面から何かもっと違った意味か、もっと満足のい くものを新たに読み取ろうとしているかのようだった。そっと静かに手紙をたたんでいつもの静か な動作でそれをポケットに収めた。それから彼女は前方に目をやったが、私を見るでもなく、その 目は、虚ろに思い出を追っている様であった。私には知る由もなかったが、やがて、彼女の目に涙 があふれた。しかし、そのことにすら気付かぬ程、思い出の情景は彼女の心を捉えていた。
 大粒の涙が一滴彼女の手の上に( 立ち上がった時前でちょっと手を合わせていた) に落ちた。少 しびっくりして手の甲で目を拭った。そしてそれから、私が目覚めているかどうかを見にベッドの 方にやって来た。彼女の日頃の穏やかで控え目な態度からは、思いも寄らないことではあったが、 悲しい過去を捨て切れない心の揺れを見てしまったのである。この手紙のことが私の脳裏からはな れなかった。その夜以来、眠らないか眠れないでいる時に特に彼女の様子を窺った。彼女が手紙を 手にしていない時でも、私に見られているとも知らず、手紙に再び思いを馳せていると思われるあ の虚ろで悲しげな表情を見せることがあった。人は閉ざされた環境の中に置かれると理性的な思考 能力を失って、途方もないことを考えるものである。実際私はこの手紙のことでいらいらし始めて いた。もし彼女が手にしていなければポケットの中に『隠されている』と決めつけた。それには何 が書かれているのか。勿論それはラブ・レターであったが、もしそうなら彼女の恋愛の過程でどん なまずいことが起こったのか。回復期の私は甘やかされた子供のようになっていた。つまり私がず っと眺めている人たちは皆私のことだけを思っていてくれたので、当然のように自分中心にものを 考えるようになってしまっていたのだ。そしてとうとうこの手紙についての好奇心を満足させるこ とが自分自身に課せられた義務であるとまで思うようになった。落ち着かない好奇心が満足させら れないままでいる限り回復はあり得ないとさえ思った。もう自分を抑制することは不可能であった 。テクラは自分の仕事で手一杯であるにも拘わらず、妹のようにやさしく思いやりをもって私を看 病してくれた。時々外でお姉さんの鋭い声が、何かまずくなったことをテクラの責任であると言っ ていた。しかしテクラは口答えをしなかった。彼女の名前は別の人たちから色々な声の調子で、数 えきれないほどしょっちゅう呼ばれ、まるで彼女の助けがなければ何も始まらないかのようであっ た。しかし私がほったらかされているとか、長い間看病されないでいるということは決してなかっ た。医者は親切で注意深かったし、ここの主人は好意的で実に寛大であったし、彼の姉も私の部屋 にいる時にはきびしい態度をとることは控えているようだった。しかし、命の恩人とまでは言わな いまでも、誰よりも私の心を和ませてくれたのはテクラだった。もし私が、恩返しとして、彼女の 人生を平穏なものに導くことができるなら、(もし、ドイツのこの素朴な田舎町ではお金が一番だ というなら、お金でも)喜んで、どんなことでもしてあげたいと思った。それで、ある晩私はきり だした----彼女が私のべッドサイドで看病する必要はもうなくなっていたが、私を夜一人残して行 く前に部屋を整えていた----
 「ねえテクラ、君はヘッペンハイムの人じゃないよね。」
 彼女は私を見て少し赤くなった。
 「ええ、でもどうして。」
「こんなに良くしてもらったのに君のことを何も知らないんだもの。あんなに一生懸命看病してく れた人はどんな人かと思ってね。君の友だちとか。ご両親のこととか。」
 こう質問を切り出したのだが本当のねらいはあの手紙にあった。
 「私はアルテンアールの生まれで、父は『金の雄鹿亭』という宿屋をやっています。母が亡くな って、父は再婚しているんです。子供も大勢できて。」
 「そして君の継母は君につらく当たるんですね」と、私は結論へと飛躍して言った。
 彼女は少しむっとして答えた。
 「誰がそんなこと言いました。義母はまじめで、立派な人なんです。父には良い妻ですし。」< BR>  「それじゃ、何でこんな遠い所まで来たんですか。」
 私がこっそり盗み見たあの晩のように、彼女の穏やかに澄んだ目は曇り始め、心なしか口許も震 えているようであった。彼女はぽつんと答えた。
 「その方が良いと思って。」
 恥ずべきことではあるが、その時、私は病人の頑固さで、しつこく質問を続けてしまった。
 「でもどうしてその方が良かったのですか、テクラ。えーと。」どう言おうか少し迷ったが単刀 直入に聞いた。「手紙を時々読み返していましたよね。」
 彼女の視線にうろたえて、私の頬は真っ赤になった。慌ててしまったので少ししどろもどろでは あったが、以前から彼女が悩んでいることに気付いていたこと、そしてもし困っていることがある のならぜひ助けたいという私の気持ちを精一杯彼女に伝えようとした。
 「無理だわ。助けるなんて。」私がこっそり盗み見ていたことに対する憤りはまだ納まり切らな かったが、私の気持ちを知っていくらか和らいで来たように思えた。「もういいんです。昔のこと ですから。もう終わったんです。いえ、終わりにしなければいけないんです。それを、バカね、私 って。」彼女の気持ちもいくらか落ち着いた様に思えた。
 「お恥ずかしいところを見られてしまって。きっとバチが当たったのね。」
 「テクラ、もし君に兄さんがいてここにいるとするよ。君を助けることは兄さんでも出来ないか も知れない。でも、気持ちだけは分かってほしいと思うよね。兄さんなら、悩み事を打ち明けても 問題ないでしょ。何度も言う様だけど、ぼくを兄さんだと思ってさ。」
 「でも、お客さま」このお客様と言う呼び方は私と想像上の兄との違いを表していた。「そんな みっともないこと、兄にだってお断りだわ。」きつい言い方だった。しかし、彼女の決意を翻させ る程、私はどうしても聞きたいのだという顔をしていたのだろう----『思い邪なる者に災いあれ』 ----彼女は目を伏せたまま話を続けた。
 「バカだったというのはね。愛してもくれない人に夢中になっていたことなんです。」バラ色の 肌に白く指の跡が付く程ぎゅっと手を握り合わせて言った。「愛してくれたことは、一度もなかっ たのか、愛していたけれど心変わりしたのか、私にもよく分からないんです。愛してくれた時もあ ったというのならまだあきらめもつくのですが。」
 彼女は麦湯と薬を私のベッド脇の小さなテーブルに手早く揃え始めた。彼女の手は震えていた。 私はどうしてもその先を聞きたかった。
 「ねえテクラ、お母さんに話すつもりでさ、ご健在だったらそうするでしょ。分からないままに しておくと一生悲しんだり、寂しい思いをしなきゃならないでしょ。」
彼女は最初話さなかった。それから手紙を取り出してゆっくりと、あきらめきった様子で言った 。
 「ドイツ語ですけれど私が間違っているかどうか、読んでみていただけますか。」
 その手紙は「フランツ・ヴェーバー」とサインがしてあり、スイスのある小さな町からの発信で ----地名は何というのか忘れたが----私がそれを読んだ時より一ヶ月ばかり前の日付であった。そ の手紙はお願いしていたお金を受け取ったというお礼で始まっていた。くどくど感謝の気持ちを述 べた後、この町のある少女と結婚しようと思っているがテクラの意見はどうだろうと助言を求める 内容に変わっていった。その少女、アンナ嬢は、まだ十八才で、とても可愛いこと、父親は店をや っていて、裕福であること、しかし、金目当てばかりでなく、少女自身のことをにくからず思って いることも間違いない、といった鼻もちならない内容が臆面もなく書き連ねられていた。そして、 もしこの結婚が成立すれば、今までテクラから借りた金はまとめて返済すると約束して結んであっ た。
  彼の真意を読み取るためにかなり時間がかかった。テクラは私が手紙を読むためにロウソクを持 っていた。忍耐強く、しっかりと支え私が手紙を再びたたみ彼女に返すまで一言も話さずにいた。 それから我々の目が合った。
 「私の言った通りでしょ、お客様」と、弱々しい笑いを浮かべながら聞いた。
 「そうだね。でもこんなヤツを追い払えてよかったじゃないか。」
 彼女は頭を横に振った。「いえ、これだけだと彼の悪い所だけ目立ちますけど。誰にも嫌な所は あるでしょ。そんな風に言ったら彼がかわいそうです。そんな言い方私には出来ないわ。幼な馴染 でよく分かっているんですもの。」
 「アルテンアールで。」
 「ええ。彼の父親も宿屋をやっていて、私たちの親たちはライバルではなくてとても仲が良かっ たんです。フランツは私より少し下で、誰が見てもかわいい子供でした。私は彼を学校へ連れて行 かなくてはなりませんでした。その役をとても誇りに思ったものです。もちろん彼自身のことも私 の自慢でした。大きくなっても、彼は村で一番たくましいハンサムな若者でした。父親たちは一緒 に坐ってよくタバコを吹かしながら私たちの結婚について話し合っていました。フランツも私と同 じ様に聞いていたと思います。彼は困った時はいつも私に頼ってくれましたし、ダンスパーティー には必ず花束を持って来てくれて、他の娘の倍も踊ってくれたんです。フランツの父親は、アルテ ンアールの宿屋を継がせる前に、ライン川沿いの大きなホテルで修業を積ませたいと思っていまし た。いろんな町で働いて、それぞれの良い所を勉強するんです。でも、それが昔から続いているド イツのやり方なんですけれどね。お客様。」
 「商人の息子はそうすると聞いていましたが。」
 「ええ、宿屋の場合もそうなんです。フランクフルトやハイデルベルクやマインツなどの大きな ホテルでは、給仕のほとんどが地方の小さな宿屋の息子なんです。都会に出て新しいやり方を覚え て、ちょっとした英語やフランス語なら少しは話せるようになって、そうじゃないとだめらしいで すね。フランツが修業に出ていって五月で四年になります。出かける前にボンへ服を買いに行って 、私に指輪を買って来てくれたのです。上の部屋に置いて来たので今はしてませんが、つい悪い方 にばかり考えが行ってしまう時、指輪を見ていると、そんなことはないよって私を励ましてくれる ような気がするんです。だって彼は悪い人たちの罠にはまっただけなんです。賭事に懲り始めて、 大きな借金をこしらえて。手紙のやりとりはしていたので住所は分かっていました。だから少しの 時なら私が助けてあげることも出来たのですけれど。私が家を出て自活しようと決心したのは、大 勢の子供をかかえて父の暮らしが大変だったからなんですが、本当を言うと、私たちの生活に必要 なリネン類や、お鍋や、やかんを買う為に奉公に出てお金を貯めようと思ったのです。今ではもう あり得ないことですけれどそれに備えるつもりだったのです。」
 「ドイツの女の人はいわゆる手鍋を下げて嫁入りするのですか。」あくまで彼を庇おうとする女 心に憤りを覚えたが同時にそれは哀れを誘うものであった。私はその複雑な気持ちを悟られまいと したためにくだらない質問をしてしまった。
 「ええ、そうなんです。台所用品とリネン類は花嫁側で揃えるのです。母が生きていてくれたら 、余裕もあったでしょうし、私のために用意してくれたと思いますが、義理の母は自分の四人の娘 たちで手一杯だったのです。でも----」彼女はふっきれたという様子で「もう結婚することもない 訳ですから、逆にいくらか援助することだってできますし、ここのご主人はとても気前がよくて一 年に六十フロリンも下さいます。( 六十フロリンは英貨で約五ポンドである。) さあ、どうぞおや すみ下さい、お客様。左側のこのコップには麦湯、右側のには椎の実茶が入っています。」彼女は ロウソクの光が当たらないようにして部屋を出ようとしていた。私はひじで身体を起こして彼女を 呼び止めた。
  「もう彼のことは忘れた方がいい。君にはふさわしくないよ。結婚しなくて良かったんだ。」< BR>  「そうかも知れませんね。」沈痛な面持ちであった。「でもそんな風に決めつけることは出来ない 筈です。ご存知ないのですから。」
 二、三分後彼女が静かにそっと戻って来るのが分かった。靴を脱いで靴下になって、手で明かり をさえぎりながらベッドわきに来て、テーブルの夜間用ランプのそばに二通の手紙を置いた。私が まだ眠っていないのを見て、言った。
 「ご面倒でもこの手紙をいつか読んでいただけますか。フランツのこと分かっていただける筈で す。彼は賢くて立派な人です。悪いのは私の方なんです。」
 その夜はそれ以上何も言わなかった。
 翌朝になって、私は手紙を読んでみた。その手紙からは、彼の考えや心の動きがはっきり伝わっ て来なかった。たいしたことのない哲学者の言葉や詩の一節を混じえて、大げさに感傷的に表現し ただけのことだった。本質を外れたり、感情を逆撫でする様なものではなかったが、趣味が良いと は言えなかった。午後には初めて病室を出て隣りの部屋へ行くことになっていた。午前中横になっ ているといろいろな思いが浮かんで来た。時々テクラとフランツ・ヴェーバーのことを思った。彼 女はしっかりしていて、人も良く、働き者だが、彼の方は、軟弱で、うぬぼれの強い男だ。それな のに彼女は、その似つかわしくない男の世話を焼きたがっている。これは一体どういうことなのだ ろう。確かに幸せな結婚といってもいろいろある。客観的に見たら不釣り合いでとても長続きしな い筈なのに、幸せに暮らしている場合もある。そんなことをあれこれ思い巡らしている所へミュラ ーさんが大きな花柄のフランネルで裏打ちしてあるインド風の部屋着とそれに合わせて刺繍のして ある喫煙帽を持って入ってきた。父親のものだったと言った。私の着替えを手伝いながらずっと家 族のことを話していた。彼の宿は盛況であった。ヘッペンハイムの教会----私はまだ見ていないが カール大帝が建てた教会でこの町の誇る名所となっていた。ここを訪れる観光客は年々増加してい た。シュターケンブルク城もあり、この城は、時の皇帝たちの権力と戦った不屈の魂をもった聖職 者、ロルシュの修道院長たちが守ってきたものだ。それにメリボークスもごく近くにあった。実際 宿を監督するだけだったら一人で十分であったが、彼は向こうに農場とぶどう畑を持っていてその どちらにもたっぷりすることがあった。彼の姉は家の中でしょっちゅう呼ばれるので、神経をすり 減らしヴォルムスに戻りたいと言っているらしい。子供たちにも手が掛かる様であった。私の身仕 度が整う頃には、彼の同情してもらいたいという状況が私にも分かってきた。彼の打ち明け話の腰 を折ってしまったが、彼の太い腕に支えられて、隣の食堂へ連れて行ってもらった。着いた日は体 調がすぐれず気も滅入っていて、おぼろ気な記憶しか残ってないが、部屋の様子は全く変わってい た。確か部屋の半分程の長テーブルと端の方に使う分だけ置かれた椅子があった筈だが、それがす っかり片づけられていた。そのかわり、庭側の窓のそばの火をいれたストーブの廻りには、家庭用 の物干しが立てられていて、シュヴァルツヴァルト地方の農作業服用の青い手織りの生地が干して あった。丁度そこには、十月の傾いた陽光が穏やかに差し込んでいた。それからくるみ材の小さな 丸テーブルとクッションのよい肘掛け椅子があった。テーブルには花が飾られていて、椅子は庭と その向こうの丘が見渡せる様に置かれていた。こういう心配りはテクラでなければ出来ないと思っ た。今日彼女をほとんど見かけなかったのをむしろ不思議に思っていた。朝のうち一、二度用事の ため私の部屋に入ってきたが、私と目が合うのを避けるかの様に慌ただしく出て行った。男のこと を分かってもらいたくてわざわざ置いていった例の手紙を返した時でさえ、小さな声でありがとう と言って急いでポケットに突っ込んだきり、何も話そうとはしなかった。朝になって現実に戻った 時、昨夜自分の秘密をすでに打ち明けてしまったことで気おくれしていたのかも知れない。私の健 康も大分回復したし、他の人たちの呼び出しに忙しそうであったので、テクラに頼みにくくなって 来たのは致し方なかった。しかし、これだけ口をきかないでいるのにはもう耐えられなくなってい た。ミュラーさんが私を残して出て行った。さっき内輪話の腰を折ってしまって、いくら温厚な彼 でも気を悪くしていないか気になったが、とにかくテクラに会いたい一心で何を頼むか考えもしな いままハンドベルを鳴らした。テクラではなくてミュラー嬢がやって来た。当てが外れてだだっ子 のようにすることもできずテクラに会いたかったと言う訳にもいかず、でもまあ誰もいないよりは ましだと思った。とにかく、何か用事を思い付かなければならず、毎日食べていたぶどうは熱っぽ い口には特にありがたいのだが今日はないのですかと聞いた。彼女は立派に仕事をこなし親切にし てくれたが愛嬌はなかった。しかし、申し訳なさそうに、ぶどうはもう残っていないことを告げた 。病人の特徴で、自分の希望が聞き入れられないことに腹が立った。それでつい大声を出した。< BR>  「じゃテクラの言っていた十四日の収穫日までぶどうはないんですか。でもあの丘の斜面のぶど う畑はあなた方のものでしょ。」
 「ええ、でも収穫日までとってはいけません。ご存知ないでしょうがこの地方の条例があるので す。大公が定めた収穫の解禁日というのがあって、官報に公示されます。ただぶどう畑の持ち主だ けは、週に二日、火曜と金曜ですが、取ってもよいことになっています。それでこの日に家族の食 べる分を取りに行くのですが、少な過ぎると次まで我慢しなければなりませんけれどね。ですから この日を狙って『半月亭』を利用するお客様が多いのです。明日はその日ですからお好きなだけ召 し上がって下さいね。」
 「変なきまりを守り続けて来たものですね。何でそんなきまりを作ったのでしょうね。柵もして いない畑だから盗られない様にとでも思ったのですかね。」
 「よく分かりませんけど、あなたのようなイギリスの方から見たら田舎には奇妙な習慣がいろい ろあるんです。ヴォルムスに行ったらまた違う暮らしにお気付きになる筈です。」
薄い雲の流れであろうか、大地に落ちた影が美しい光の綾を織りなして行く。
 「うわあ、すごいですね。こんなのは他にないですよね。」
感動的な光景であった。何度も言ったように窓のすぐ外は庭だった。好みの形に手入れがしてあ る金色の葉をつけたスモモの木、紫色のヨメナの茂み、遅咲きのバラの花、紅い実を一部もいであ るリンゴの木にはまだ枝にたくさん実が付いていて、そのたわわな実りを棒が支えていた。左手に はスイカズラや他の甘い香りのするつる草類で覆われたあずまや----全ては低い灰色の石の壁で境 界がつけられている。庭はやがて丘に連なり、急勾配になる辺りから上の方は一面のぶどう畑にな っていて、紫色の背景を形づくっていた。
 「庭の入口を塞ぐようにぶどう畑までロープが張られていますね。それにわらが一束ぶら下がっ ていますが何の為ですか。」突然ロープが目に止まったので聞いた。
 「誰もあの道を通ってはいけないという印です。この地方のやり方なのです。明日は、あれが取 り除かれますからそうしたらすぐにぶどうをお持ちしますよ。それではお客様のコーヒーを用意し て参りましょう。」ヴォルムス流の優雅なおじぎをして出て行った。しかしコーヒーを持って来た のは下働きの娘だった。彼女はなまりがひどくて、一言も話が通じなかった。私はがっかりして、 どっと疲れが溜まってしまった。だからその日は早く床についた。誰かが夜の支度をしに来てくれ たことも気付かぬ程すぐに深い眠りに入ったようだ。しかし、朝気が付くと、いつも要るもの、ほ しいものが全てきちんと揃っていた。
 ドアをたたく音が聞こえた。可愛いかん高い子供の声で入っても良いかと舌たらずのドイツ語で 聞いている。いつも通りのどうぞを言うと、テクラが二歳くらいのねまきを着た、よく眠って元気 いっぱいになっている可愛い男の子を抱いて入って来た。坊やは手に立派なマスカット種のぶどう の大きな房を握っていて、小さなバッカスさながらであった。テクラは愛らしくてたまらないとい う目をしてその子を抱いたまま私の方に近づいた。しかし、病み衰えて陰気な私のひげづらを見る と、急に向きを変えてぶどうの房を握ったまま、彼女の首に顔を埋めてしまった。何を言っている のか聞き取れなかったが、テクラが小さな声でなだめていた。しばらくすると言うことを聞いて、 こちらに向き直り、ぶどうを渡そうと私の方に身体を反らせたので、バランスを崩し、ベッドの上 にぶどうを落とした恰好になってしまった。それから彼は再び彼女にしがみつき、彼女のネッカチ ーフに顔をうずめた。小さな手は彼女の豊かな髪をしっかり掴んでいる。彼女はその手をゆっくり 振りほどいて、編んだ部分を握らせてやった。
 「ここの主人の唯一人の男の子なんですよ。私のマックス。もうかわいくてかわいくて。ああマ ックスそんなに強くひっぱっちゃいやよ。お兄さんに『バイバイ』を言って、それからお別れのキ スをしたら行きましょうね。」暗い私の部屋から早く出て行けることが分かると「バイバイ」と言 ってぷっくりとした手で投げキッスをして、それから子供らしい舌たらずのかわいい声で、テクラ と楽しいお喋りをしながら出て行った。
次にテクラを見たのは、午後遅くコーヒーを持って来てくれた時だった。朝見た時の花の盛りの たのしげな乙女と言った面影はなく、顔色も悪く、気疲れでふけ込んでしまったように思えた。
 「どうしたの、テクラ」と、私の腕の良い忠実な看護婦に何が起こったのか本当に心配して言っ た。
答える前に辺りを見回してから「彼を見たんです。彼がここに来ているんです。お姉さんがたいへ んお怒りになっているんです。ご主人に言いつけると言うんです。ああ、こんなことが起こるなん て。」いつもあんなに冷静で沈着なこの若い女性が、かわいそうに、今にもわっと涙があふれそう だった。そして白いコーヒーカップを私が取り易い様何度も位置を直しながら、それをじっとこら えている様であった。
 「さあ、テクラ。みんな話してごらん。お姉さんが大きな声を出していたので何か起きたんだと 思っていたよ。それにロットヒェンが食事を持って来た時落ち着かない様子だったしね。フランツ がここにいるんだね。どうやって君を見付けだしたんだろう。」
 「ええ、彼はここにいます。確かに彼なのですが四年の間に変わってしまって。顔つきも態度も 全く別人みたいなんです。でも彼の方はすぐに私が分かって、子供の頃に使っていた愛称で私を呼 びました。彼はスイス人のあのアンナとどうして結婚しなかったか、そのいきさつを私に話したい といってきかないのです。彼が言うんです。一度だってアンナのことを愛したことはないって。家 を継ぐために故郷に戻るところなので、私にも一緒に行ってほしいって。そして」----そこで彼女 は言葉を切った。
 「そして彼と結婚しアルテンアールの宿屋に住む。」笑いながら彼女の言おうとしていることを 言ったのだが、この事態は私にとって相当のショックであった。
 「そうじゃないんです。父親のヴェーバーさんが亡くなって、借金を残したまま。いつもお金に 困っているっていうそういう人でしたから。フランツにはお金の入るあてはないし、それで私が考 えていると、お姉さんが入って来て、側に立っているフランツを見て、それで、それで----かわい そうにフランツは今では良い印象をもたれないんじゃないかしら----お姉さんはとても怒って、私 のことをふしだらだと言って、『半月亭』でこういう問題を起こされては困るので、森から帰った ら、弟によく言ってもらうからと言うんです。」
 「でも昔なじみだと言えばよかったのに」----と私は「恋人」という言葉を使うのをためらった が、そのすぐ後に彼女の口から、少し言いにくそうに、その言葉が出て来た。
 「そうだとも言えないんですけれど、フランツは恋人と言った様に思います。お姉さんが、出て 行く様促すと、彼は明日の朝私の答えを聞きに来るとだけ言って、道の向こうの『鷲亭』へ帰って 行きました。私たちの関係を同郷の幼馴染みだと、彼がお姉さんにはっきり言えばよかったのに、 私まかせで、何も言わずに。あーあ、お姉さんはきっとひどい言い方でご主人に言いつけるでしょ うね。」
 彼女はぎゅっと手を握り合わせている。
 「心配しなくてもいい。ぼくがうまくご主人に話してあげるから。お姉さんが変なことを吹き込 まないうちにね。だから、森から帰って来たらすぐ会いたいと伝えて下さい。」
 彼女は感謝を込めて私を見上げると、それ以上何も言わずに出て行った。やがて私の部屋の入口 に立派な、がっしりしたミュラーさんの姿があった。一日のきつい仕事を終えて帰って来たのに、 食事も後まわしで呼びつけられたら誰だっていい顔は出来ない。しかし、三角帽を手にしたミュラ ーさんの表情は、上気してやや疲れは見えるもののいつも変わらぬやさしさと思いやりをたたえて いた。
  私はテクラの話についてじっくり考えていた。私は彼女の今日の態度を満足のゆくほどよく判断 できた訳ではなかったが、それでも彼女の成長と共に育まれた愛は、恋人の突然の出現で確かに呼 び覚まされたに違いないし、下世話な言い方をすれば、ずいぶん得をすると思われる、スイス人の アンナ嬢との婚約を彼が破棄したことを、彼のある種の手柄としたい気持ちになっていた。又、彼 が少し軟弱でセンチメンタルだとしても、結婚するかどうかはテクラの自由だ。そして恐らく彼女 には人一倍の分別と内に秘めた決意があるものと私は考えた。それでこれまでお話ししてきた、こ のちょっとした話の要点を私の良き友であるここの主人に話した。この男フランツについて一人の 男としての意見をお聞きしたい、もし彼が全くのろくでなしではないのなら、そして私が思ってい るようにテクラがまだこの男を愛しているのなら、アルテンアールにある親の代からの宿屋をやっ ていくのに必要なお金を前貸ししようということを付け加えた。
 こういったことは、私がこの一時間の間によくよく考えたテクラの悲しみに対するロマンチック な結論であった。私がこの話をし、なんとか考えられそうな幸福な結末をほのめかすと、主人の顔 色が変わった。血の気が失せて、厳しいとも言える程、確かに表情が非常に容易ならないものにな ってきた。どうもあまり賛同も得られそうもないので、直感的に急いで話を終わりにした。私が言 い終わると、彼はちょっと間をおいて切り出した。
 「今『鷲亭』にいるそのよそ者について出来る限り調べてあなたにその印象をお伝えすればよろ しいのですね。」
 「その通りです。テクラのために、彼について出来る限りのことを知りたいのです。」
 「テクラのためだったら私がします。」ミュラーさんは、きっぱりとした口調で言った。
  「たとえ私が寝ていても、今夜私の処に来て下さいますね。」
 「いや、そう簡単にはいかない問題です。もっと時間はかかるでしょう。」
 「しかし彼は朝一番にテクラの返事をもらいに来るんです。」
  「彼が来る前に分かったことがあればお知らせしますよ。」
 翌朝、身仕度にも疲れて休み休みやっていると、ミュラーさんがドアをたたいた。彼はこれまで になく暗い険しい顔付であった。そして私がお坐り下さいと言う前に、もう坐っていた。
  「奴は彼女にふさわしくありません。奴は全く強いブランデーを飲むし、ゲームで勝った自慢は するし」----ここで彼は歯をくいしばって----「自分を愛した女性たちの自慢をしているんだ。こ ういう村には、あなた、宿屋の庭で晩を過ごすああいう手合いがいつもいるんです。あの男はたら ふく飲んだ後、みんなしゃべっちまうんだ。奴がどういう人物かを見破るのに、聞き耳をたてる必 要なんてなかったんです。私はこそこそやれるタイプじゃありませんからね。」
  「テクラにそのことを話さなければいけませんね。彼女は尊敬できない様な男を好きになる筈はないと思いますがね」と私が言うと、ミュラーさんは彼らしくない薄笑いを浮かべながら、苦々しげに、
 「あなたはお若いし、女性経験もそう豊富という訳でもないでしょうから、お分かりにならない かもかも知れないけれど、姉の話からするとテクラはあの男を信じきっている様なんです。姉は二 人が窓のそばに立って、奴がテクラの腰に腕をまわして耳元で囁いているのを見たそうです。あの 娘は客観的に見て誰彼かまわずそんなことを許す様な娘じゃありません。絶対に」まだ同じ軽蔑的 な調子で続けて「テクラはきっと奴の欠点やいやしい言動の言い訳をするでしょうね。私の見聞き したことをあなたが事実だといくら言ってもきっと信じようともしない筈です」と言って、彼はサ ッと向きを変えて部屋を立ち去った。やがて窓の前の丘の斜面のぶどう畑の中を、彼のがっちりし た姿が向こうの森の方へ大股のしっかりした足取りで登って行くのが見えた。私はずっとそのうし ろ姿を追っていた。そうして一時間が経ち、まるで急いで歩いて来たか、激しい労働をしていたか の様に、彼は熱っぽく上気して少し疲れた顔付で私の部屋に来た。しかし、彼の顔から憂いが消え 、正直な目はやさしい光を取り戻していた。
 「また面倒なことをお話しして、お詫びしなければいけないんですが。さっき、私は悪魔に取り 憑かれていたんだと思います。ずっとあれを考えていました。恐らく他人の幸せに口をさし挟む権 利なんて誰にもありはしないでしょう。ああいう----」と、ここで正直な男はちょっと声を詰まら せた。「ああいうテクラのような女性に愛されればどんな男だってよくなれるはずです。それに私 は裁いたり出来る立場じゃありません。私が彼女を愛しているということを、私自身今朝初めて気 がついたんです。ですからもしあなたが、よく考えた結果彼女が本当に彼との結婚を望んでいると お考えなら、つまり彼女があの男を絶対救ってやるべきだとお考えなら、かかる費用の半分は喜ん で私が出しましょう。ただ我々が前貸しするお金は、彼女にとって安全なように、法的に十分縛っ て私が見張ることをお許し下さい。それから私が彼女を愛していることに気付いたという話はどう か忘れて下さい。私がこういう申し出をしたのは、今朝ひどい言い方をしてしまったお詫びと、は っきり言ってどれがベストか分からなくなってしまったからなんです。」所々言葉はもつれたが、 ここまで一気に話すとほっと溜め息をついた。男気のある彼の心の葛藤に私も共感を覚えたので、 じっと聞いているだけであったが、誰も止めることが出来ない程熱のこもった話し方であった。
 「しかし、あなたが出て行った後テクラがここにやって来てしばらくそのことを話し合ったんで す。彼女は、今では、何でも隠さず相談した方が得だと分かっている様で、率直に心を開いて実の 兄のように話してくれます。信頼している割にはちょっと遠慮がちでしたが、この男と結婚するこ とは私の義務かどうか教えてくれと彼女が言うんです。四年前彼女を捨ててから彼は堕落してしま ったからだと言うんでは。」
 「彼が腰に腕を廻すのを昨日彼女は許したんですよ」と、ミュラーさんは今朝の不機嫌に戻って 言った。
 「そしてもし結婚が彼女の義務だと分かれば、今すぐにでも結婚したいと言うんです。このフラ ンツ・ヴェーバーは何やかやと旨いことを言って、彼女のこの義務感に訴えたのです。結婚すれば 彼は立ち直れると言ったらしいのです。」
 「自分で立ち直る力のない頼りない男だから一生自分を支えてくれる女性が必要だと言うんです ね。」
  思わず苦笑してしまった。「だって結婚すれば絶対彼は救われると言ったのはあなたですよ。ま だ五分も経っていないのに。」
 「それはテクラがこの男を愛していると思っていた時のことですよ。でも今は。それはそうと、 あなたは彼女に何と答えたのですか。」
 「私は福音のごとくに真理と確信していることを話したんです。それはね、彼女はもう彼を愛し ていないと告白していることだし、彼の本当の姿が分かって、思い出も色褪せてしまった訳だから 、彼と結婚することは罪悪だ。たとえ彼がよくなるようにと思って結婚するとしても、結局は罪を 犯すことに変わりはないんだとね。これは間違っていないと思いますが、もし彼女がまだ彼のこと を愛していたら返答に困っていたでしょうね。」
  「それで彼女は何と答えたのですか。」
 「二人の身の上話を繰り返していましたよ。良心が咎めるらしくて、自分の願いの言い訳をして いましたよ。子供時代からずっと、彼の力になっていたし、彼女の影響下にあるうちは悪くはなか った。それが彼女から離れると困ったことにのめり込んでしまったのだと。」
  「悪の道とは言わないまでも」と、ミュラーさんは口を挟んだ。
 「そして今、彼は改心して彼女の許に来て、悲しみのうちに欠点を直してもらおうと、過去何年 も暗黙のうちに彼と婚約していると思っていた彼女の愛にすがって----」
 「なのに奴は何とも思っちゃいなかった。昨夜の『鷲亭』の庭での奴の言動は話したんですか。 」
 「いや真理一本槍で押し通しましたよ。いろいろ言い方は変えましたが結婚罪悪説を繰り返した んです。というのは、彼女の自己犠牲の美学はなかなか手強くてね。もし例の言動を暴露する戦術 で行ったなら、彼の改悛の情がいかにうわべだけのもので信用ならないかということを彼女にいや と言う程見せつける訳ですから、彼女の美しい義務感を正しい方向に導けないで、徒に彼女を苦し めることになったでしょうね。」
 「で、どうなったんですか。」
  「もし全く愛さなくなった人と結婚すれば、正しいことの代わりに悪いことをすることになり、 悪い行いに基づく一連の行動からは、本当に良いことが生まれる筈がないことを、すっかり確信す ることになりました。」
  「いやあ、それはよかった。」彼の顔は喜びにあふれた。
 「でも彼女は仕事をやめて何処かほかへ行かなければならないと言っていましたよ。」
 「仕事なんかやらせません。何処にも行かせるものですか。」
 「何と説得してどうされるのか分かりませんが、決心は堅いように思いましたが。」
 「何故です」と、彼はまるで私がテクラに決心させたかのように、私に挑むように言った。
 「テクラは大勢の使用人や町の人たちの前で、あなたの姉上から耐えられない言い方をされ、そ れに昨夜のあなたの態度から、あなたの信頼を全く失ってしまったと感じ取った様です。テクラは 清純な乙女らしい真剣な顔で、フランツがあんなに慣れ慣れしく彼女に接触したのは、あなたの姉 上が部屋に入って来られる直前だったのだと弁解していました。」
 「失礼します」と、ミュラーさんはドアの方に歩きかけて言った。「事態収拾に行って来ます。 うまくやりますから。」しかし、言う程、事は簡単ではなかったようだった。次に私がテクラを見 た時、彼女の目は泣いて腫れ上がっていた。何も言わず、私に対しては挑戦的であると言ってもよ かった。断固とした決意が表情に表れていた。後で分かったことだが、私との会話をミュラーさん が彼女との話の中で無分別に持ち出したのだった。私は彼女をそのままにして、私に対する不当な 恨みの感情が解けるまで待とうと思った。しかし彼女が以前のように率直に話しかけるようになる までには何日もかかった。私はテクラから聞くまでもなく、ずっと前にミュラーさんから全てを聞 いていた。
  彼は私の部屋から直ぐにテクラの許に行って、愚かで熱烈な恋人そのままに、自分の気持ちを姉 のいる前で遠慮なくさらけ出してしまったのである。ご記憶にあるかどうか、姉の逆鱗に触れたテ クラのふしだらな行動はこの前日のことで、姉はまだ言い訳や説明を聞かされていなかったのであ る。ミュラーさんは姉の目の前で自分のこれ以上ない愛と尊敬とをテクラに表せば、姉の彼女に対 する評価が元どおり良くなると考えたのだ。お姉さんは台所のコンロで得意のおいしいジャムを作 っていた。テクラが手伝っていたが、きつい口調で邪険に命令され動き廻っていた。そこへ主人が やって来て娘の手を取り、身も心も財産も捧げるから結婚して下さいとプロポーズしたのだ。テク ラの驚きも察するに余りあるが、お姉さんの憤りも測り知れなかった。彼の話では、テクラはどう して良いか分からず声も出せずにただ震えていたが、彼の手を振りほどくと、エプロンで顔を覆っ てしまったらしい。お姉さんは思わずミュラーさんを口汚く罵った。彼も激しく応酬した。テクラ は顔を上げて、この姉弟の遣り取りを見守っていたが、まだ怒りの鎮まらないお姉さんに近寄り、 静かに話し始めた。求婚者にとって、それは感銘深いものではあったが、同時にお姉さんの危惧を も吹き飛ばす程絶望的なものでもあった。テクラはその時まで、前の彼と結婚するかどうか考え続 けていた訳であり、もし彼女の心から前の男が出て行くことがあったとしても、直ぐに次の男が入 り込むなどということは彼女の心が許す筈はない。しかしながら、彼女がここに奉公して以来、と ても待遇を良くしてくれたし、やさしくしてくれたミュラーさんの下を離れるのはとても残念であ る。それに、子供たち、特にかわいいマックスと別れるのは堪え難い。それにお姉さんにしても、 他の女性に厳し過ぎるきらいはあるが、立派な女性だと思うしやはり別れは寂しい、という様な内 容であったようだ。しかし彼女はその日のうちに、警察署に辞職の予告を出しに行ってしまった。 忙しい時期もあと少しだから、それが終わったら諸聖人の日に自分の方から喜んで辞めさせてもら いたいと言ったのだ。でも本当は彼女は泣く泣く辞めるのだとミュラーさんは思った。なぜなら、 ヘッペンハイムでは皆さんに親切にしていただいたけれど折りが悪くて、でもこれからはうまくや っていきたい。故郷に帰って年老いた父とやさしい義母と、大事に育てられている義妹のイーダに 会って、しばらく家族と一緒に過ごしたいと自分を奮い立たせる様にして言ったからなのだ。だが しかしミュラーさんはこの話の最後の部分がとても気になっている様であった。というのは、恐ら くフランツ・ヴェーバーもアルテンアールに戻ろうとしているからなのである。つまり、彼女がこ んなにもあっさりとここを去ってアルテンアールに戻ろうとしているのは、あの面汚しの昔馴染み の恋人のせいではないかという猜疑心が次第にふくらんでいたのである。
 その後数日間、私はテクラを除く家中の人たちから打ち明け話の相手をさせられた。かわいそう にテクラはすっかり参っている様子だが、辛さを堪えようとツッパッテいた。お姉さんのご機嫌を 取り、下の者の突き上げにもじっと耐えて、まとめ役になってくれたテクラが辞めるのならここに いてもしかたがないと、ロットヒェンはおおっぴらである。大体お姉さんがテクラを解雇するのを 黙って見ていたご主人は何を考えているのでしょう。恋人が出来たら恋人の方がいいに決まってい るのにそれを咎めようと言うのかしら。じゃあ一体子供たちはどうなるんでしょうか。あの母親の いない子供たちは。ロットヒェンとテクラは相部屋で、かわいいマックスはそこに一緒に寝ていた が、テクラは彼が何か声を立てると、母親のようにすぐに聞きつけて、見に行ってやっていた。私 が重体の時、テクラが私の看病をしていたので、ロットヒェンがマックスの世話をしなければなら なかった。一日中働き詰めで、夜また起きてむずかる子供をあやすのは大変なことであった。だか らロットヒェンは時々不機嫌になったが、テクラはどんなに疲れていてもマックスにいつもとても 優しかったと言うのだ。そしてロットヒェンはテクラが辞めたら、自分も辞めたい、もうここに居 てもしかたがないと繰り返し言って私の部屋を出て行った。
  お姉さんでさえぐちをこぼしにやって来た。男と馴れ馴れしくしていたテクラを叱ったことは致 し方のないことだ。幼馴染みの友だちであるなどと知る由もなく、まして彼はどう見てもろくでな しの遊び人であったと言うのである。それに、使用人の分際で、叱られたことに腹を立てて辞めた いなんて言い出すなんて。やっと仕事を覚えて何でも出来るようになったと言うのに。新しい娘が 来たって満足なことが出来る筈はないので、どこに何があって、何をどれだけ使って、などと苦労 して一から教えなければならないし。こういう事は男向きの仕事ではないから、彼女が忙しい時で も弟が手を貸すことはできなかったし。こんなことなら、自分だってここを辞めてヴォルムスに帰 りたいくらいだ。ヘッペンハイムに較べたらヴォルムスの方がまだ豊かで文化的だと言うのだ。
  彼女は弟にここを出て自分の家に戻りたいと話したに違いない。確かに今、姉弟の間にすきま風 が吹き始めていることは確かだ。ミュラーさんは時々パイプたばこをやっていたが、ある晩私の部 屋にやって来てストーブの側に坐ると、浮かぬ顔をしてパイプをふかし始めた。私が何も話しかけ ないでいると、しばらくじっと考え込んでいたが、遂に口を切った。
 「私はとうとう奴を村から追い出しましたよ。ぶどう畑でも、泉でも、彼女の行く先々に顔を出 してしつこく話しかけるんです。奴がここに居る限り彼女の評判は悪くなる一方です。私にはそれ が我慢ならなくて。テクラはねえ、もう奴になんかに惚れてやしませんよ。」
 「私もそう思います。」彼は私の方に向き直った。
 「でもよりによってなんであんな奴の相手をしてやるんですかね。一生懸命誠実に愛しているの に冷たくするのはなぜでしょうね。それにあんなにアルテンアールに帰りたがっているのはどうい うことなんでしょうね。」
 「いや、彼女は子供の頃からの付き合いだから無邪気な時も知っている訳ですよ。それを皆が寄 ってたかって軽蔑するものだから、かわいそうに思って話し相手になっているんだと思いますよ。 誠を尽くしても通じないと言うのは( 本当は一言言いたかったのだが) いわゆる『蓼喰う虫も好き 好き』というやつですよ。アルテンアールは彼女の故郷だし、帰れば父の家がある訳だから。」
 「でも奴は本当にそこに行く気があるんでしょうかね」と、せわしくパイプをふかしてから言っ た。「奴は金がないものだから『鷲亭』を引き払う訳にもいかず、近々友だちが送金してくれると 言ってごまかしてずっとそこに居たんです。時々出かけて行ってテクラを待ち伏せしてね。でもヘ ッペンハイムで彼女のことを知らない人はいないし、評判も良い娘だったから。彼女の旧友だと言 うことで、いくらか信用はされていた様です。今朝私は奴の所へ行って来たんです。今日ここから 出て行くという条件で奴の借金を払ってやりましたよ。そうしたら喜び勇んですぐに村を出て行き ましたよ。皇帝が建てた村の教会も、テクラの居る『半月亭』も振り返らずにね。口笛なんか吹き ながら、テクラへの未練など全くない様子でしたね。」
 「そりゃ厄介払いが出来て良かったですね。」
 「ええ、それはそうなんですが。姉はどうしてもヴォルムスへ帰ると言い張るし、ロットヒェン も辞職の予告を出して、テクラが本当に辞めるなら自分もここに居たくないと言うんです。私も辞 職の予告を出せるものなら出したいですよ。」
 「もう一度テクラに申し込んでみたら。」
 「いや、だめですよ」と、顔を赤くして言った。「今となっては、まるで家政婦に欲しいだけに 見えるでしょう。その上絶えず私を避けて目を合わせようとさえしないんです。あのやくざ者のこ とで私に悪意を抱いているのは確かですよ。」
  しばらく私たちは黙っていたが、遂に彼が沈黙を破った。
 「牧師さんにはとてもきれいな娘さんがいましてね。奥さんもすばらしい人でね。私に教区牧師 館に来て一服するように、よく招いて下さるんです。収穫が終わったら、そこへ行って自分のこと をじっくり考えてみようと思っているんです。」
  「取り入れはいつですか。すぐだと良いのですが。こんなに元気になったので、そろそろ行かな くちゃと思っているんですが、収穫祭だけは見て行きたいんですよ。」
 「ああ、だいじょうぶですよ。でももうしばらくご旅行は控えておいた方がいいでしょう。それ に政府はぶどうの収穫を十四日に始めると決めました。」
 「政府の温かい心配りってとこですね。ところで、ぶどうの熟れる時期をどうやって当てるので しょうね。なんでそれぞれ独自に決めないんでしょう。」
  「ドイツでは一度もそういうやり方をしたことがないんですよ。政府の役人で、ぶどうを調べて 何時熟れるかを報告する人たちがいるんです。収穫の仕方はどうしても法律で縛らなければならな いのです。なぜかと言うと、あなたもお気付きのようにイギリスみたいにフェンスで囲いをしてい ませんよね。ベルクシュトラーセまでずっとないんです。しかし、指定された日にしかぶどう畑に 入れない様に決められていますから、自分の収穫をする振りをして隣地に入り込んでかってに取ろ うとしても、必ず大公の林務官に見つかってしまいます。だからぶどう畑はその法律が守ってくれ ているんです。」
 「そうですか。国によっていろいろな法律があるものですね。」
 テクラが何か用のために入って来たのは、まさにその晩だったと思う。彼女は何か話したいこと があるらしくて、テーブル・クロスと花を直す手を止めたが、何と切り出したものか迷っている様 であった。彼女は皆の同情をつっぱねてしまったので、皆も彼女のことをどうでも良いと考えてい ると思っていた。しかしそのことは彼女の胸を苦しめていたのだ。そして、とうとう私に話を聞い てもらいたくなったのだ。彼女は私を見上げて少々唐突に言った。
 「私が十五日に行くのをお客様はご存じですか。」
 「そんなにすぐにですか。君は諸聖人の日までここに居るものと思っていましたよ。」
 「そのつもりだったのですが、お姉さんがご親切にもフランクフルトの貴族の未亡人の家政婦と いうとても良い仕事を捜して下さったのです。私には願ってもない仕事ですし、きっと居心地もよ くて幸せになれるんじゃないかと期待しているんです。」
 「その婦人は不服を言い過ぎると思われるが」と言うセリフが頭に浮かんだ。テクラは私が彼女 の幸福の可能性を疑うのを予期して、挑戦的であるのが見てとれた。
 「大丈夫ですよ。もしヘッペンハイムで幸せだったら、ここを出たいとは到底思わなかっただろ うし、新しい職場は皆いつも希望があるので、例えその仕事がどうであろうとね。しかし、君が何 処へ行っても、私はいつも君の味方ですからね。」
 「ありがとうございます。あなたは信頼出来ると思いますが、私の経験では、どうも信頼できる 男性なんてほとんどいないのじゃないかしら。」
  「女の人だって同じですよ。なかなか良い人には巡り合わないものです。」   彼女はちょっと考えてから声の調子を変えて言った。
 「お姉さんは今では弟さん以上に親身になって私を助けて下さいます。私はご主人に忠実に仕え 、かわいいマックスを自分の本当の弟であるかのように世話してきました。でも、今朝ご主人はこ こ何日かで初めて私に話しかけてきたのです。廊下で私に会うと突然立ち止まって、私にあんなに ぴったりの職が見つかってうれしい、好きな時に何時でも行っていいから、と私の答えを待たずに 急いで行ってしまいました。」
 「それじゃまずいんですか。彼は君が心置きなく一番良い道を選べるようにと、自分の気持ちを 押さえているんだと思いますよ。」
 「ええ、きっとそうだと思っています。でもバカなことだと分かっているのですが、」純粋で悲しげな目でじっと私を見つめながら言った。「皆が私と別れるのを喜んでいるのじゃないかとさえ思えて、何だか複雑な気持ちなんです。」
 「テクラ、君は恩人だ。ざっくばらんに言いますよ。ここの主人が結婚を申し込んだけれど君は 断ったよね。自分をごまかしてはいけないと思うけど、断ったことを残念に思ってやしないだろう ね。」
 彼女はまじめな眼差を私に向けていたが、顔がのどまで赤くなっていた。
 「いいえ、残念ではありませんわ。私のことをどんな人間だとお思いになっていらっしゃるので すか。小さい子供の頃から二週間前まで一人の男を愛してきたのに、すぐに次の人に乗り換えるな んて出来る訳がないでしょ。そんなことを本当に考えておっしゃっているのですか。それともあの 男を愛したことを軽蔑なさっていらっしゃるのですか。」
 「君は偶像を愛していたんだ。彼は君を裏切るようなことばかりしたが、君は思い出だけにしが みついていた。しかし彼がここに来て、その幻想も遂に現実によって駆逐されたんだ。」
 「哲学は分かりませんけど。でもお姉さんのお話でミュラーさんの信頼を全く失ってしまったこ とだけは確かです。だからここに居るよりもフランクフルトへ行った方がまだ幸せになれるのじゃ ないかと思うようになったのです。」そう言って彼女は部屋を出ていった。
  十月十四日の朝、教会の鐘が楽しげに鳴り渡り、銃やピストルを撃ち鳴らすパンパンという音が して、目を覚ました。着替えを終えて、仕切りをした私の部屋で朝食の膳に着く頃までこの音は続 いていた。朝食を持って来たロットヒェンは晴着を着ていた。彼女は早起きをして仕事をすませ、 これからぶどうを摘みに出かけるところであった。秋晴れのすばらしい朝であった。朝のうち日陰 になっている庭の草の葉や、花から花へ繊細に張り巡らされた蜘蛛の巣は、朝露を置き、きらきら と輝いている。しかし、庭の向こうの丘の斜面いっぱいに広がるぶどう畑は一面に朝日を受け、枯 れかけた葉の間からは緋色や赤紫色や橙色といった明るい色がまだらに顔をのぞかせている。その 中を男も女も子供も一斉に登って行く。斜面のあちこちで混み合ったり疎らになって広がったり、 その動きはまるで蟻の群れのように不規則に休みなく続いていた。私の坐っている処まで楽しげな 甲高い声が聞こえてきた。家の中は年に一度の収穫祭のために大勢の客が訪れていた。
  家の中でぐずぐずしていてはもったいないと、一人で出かけようとしていると、ミュラーさんが 入って来た。ぶどう畑まで彼の丈夫な腕をかしてくれると言う。私たちは遅咲の花や太陽を浴びた 果物が薫っている庭を抜けて、私が安楽椅子から、よく眺めていた門を通って、人のいっぱいいる ぶどう畑に辿り着いた。草の上には大きなバスケットが置いてあり、紫色や黄色のぶどうで一杯に なっていた。ワインを造るぶどうは、私が良く食べるものとは全く違う種類であった。一番高級な ライン酒は粒がきわめて小さく、ぎっしり詰まった堅い房のぶどうから造られる。しかし食べてお いしいのはやはり大粒で絵に描いた様な房のぶどうなのだが、これはずっと安い種類だ。あたり一 面踏みつぶされた香り高いぶどうの葉で覆われていて、どの人も皆、手や顔が紫色に汚れていた。 ミュラーさんは私を残して、もっと先の畑のぶどうを摘み取りに行った。私は陽の当たる草地に腰 をおろして後ろ姿を見ていたが、やがて上着とチョッキを脱ぎ、真っ白いシャツとはでに刺繍をし たズボン吊りを見せて、皆と一緒にせっせと働き始めた。村を見下ろすと真昼の太陽に輝くグレー やオレンジや赤といった色とりどりの屋根が鮮やかに眼下に広がっている。しかし、通りには人の 気配はなく、お年寄りでさえお祭に加わろうと丘の斜面を苦労して登って来るようであった。ロッ トヒェンは大勢の人たちのために冷製の食事を運んで来た。皆勝手に取って食べた。テクラも小さ なカロリーネとよちよち歩きのマックスを連れて来ていたが、私の方に近寄って来ることはなかっ た。私は少し知り過ぎてしまったし、変な憶測や質問がまずかったのかも知れない。彼女だけは浮 かれている様子はなく、むしろ悲しげであった。しかし、素っ気ない挑戦的な態度は影をひそめ、 親切でやさしい彼女に戻っていた。ただ、友だちと話すことは少なくしている様で、未練を残さず この地を離れるために心の準備をしているのだと感じていた。
 昼近くになってお姉さんはヴォルムスで今流行のファッション----といっても私がこれまで見て きたものとは全く違うけれども----で現れた。彼女は私の処にやって来て、しばらくの間とてもし とやかに私に話しかけていた。
 「地主様が奥様とお子様たちとご一緒に来られましたわ。ご覧下さい、あの棒に結わえた一番大 きな房は子供よりも、いえ奥様より重いのですけれど取り入れの方はあれを運ぶのですよ。ほらほ らあの方ずいぶん丁寧なおじぎをなさって。ウィーンに随行なさった方ね。宮廷のおじぎの仕方で すものね。地主様たちの前で帽子を取って、直角に背中を曲げるのね。なんて優雅なんでしょう。 お医者様がいらっしゃったわ。あら先生ぶどう畑の中までお入りになって。ここでお過ごしになる のね。きっとうきうきして次の往診にいらっしゃれますね。まあ愚かなことを。ぶどうは、飲み過 ぎ、食べ過ぎの患者さんを増やす元ですもの。あら、牧師様と奥様とアンナお嬢様だわ。弟は何処 にいるのかしら。遠くのぶどう畑だわ、きっと。牧師様、もっと上の眺めはここよりずっと良いで すし、一番良いぶどうがあそこに出来ますわ。牧師様と奥様とお嬢様のお供をいたしましょう。お 客様、それでは失礼させていただきますわね。」
  私は一人取り残された。もう少し先に行くか、場所を変えてみようと思った。小道の角を曲がっ たら、子供たちのお守りをしているテクラを見つけた。彼女は自分のショールを敷いてかわいいマ ックスを寝かせていた。顔のところにはぶどうの枝でこしらえたアーチ状の日除けがあって、大き な葉が涼しげな陰を造り出していた。マックスは食べかけのぶどうをぽっちゃりした手に持ったま ま眠っている。リーナは草花や色づいた木の葉を使った冠の作り方をおとなしくテクラに教わって いる。谷の方に背を向けて坐ったテクラのそばにひざまずいて器用に動く指先をじっと見詰めてい る。近くに寄って行くと二人は顔を上げて私を見た。挨拶を交わしてから、聞いた。
 「ご主人は何処にいらっしゃいますか。木の階段を降りるのに手を貸して下さるおつもりらしい ので戻っていらっしゃるまでここに居りますとお答えしたのですが、まだのようですね。」
 「牧師様ご夫妻と一緒に、もっと上の畑に行かれたので、まだそこにいらっしゃるのじゃないか しら」と、テクラはその方向へ目を向けないで言った。「使用人やお友だちにご用があるのでしょ う。もしお疲れになっていてお戻りになりたいのでしたら、階段は急で滑り易いですから私の腕に つかまって下さい。少しの間だったら、マックスのことはリーナが見ていてくれると思いますから 私がお手伝いしましょう。」
 私は振り向いて谷を見た。三、四百ヤード離れたもっと上のぶどう畑を、威厳のある牧師と家庭 的で上品な奥さんが歩いている。栗色の長い髪のアンナ嬢が半袖のドレスに日傘という優雅な装い ですぐ後ろを歩いている。ミュラーさんは一番後ろに居たが、時々立ち止まって使用人に話しかけ たり、アンナ嬢のためにぶどうを吟味したりしている。テクラは普段着を着ているが誇り高く、悲 しげではあるが穏やかな目付きで、私を見上げたままじっと答えを待っていた。
 「ありがとう、テクラ。でも大丈夫。もう君の腕を借りなくてもよい程元気になったから。ただ 、ちょっと伝言をお願いしたいのだけれど。ご主人に私が先に帰ったとお伝えいただけますか。」
 「分かりました。リーナがパパにお話ししてくれるでしょう。」
  私はゆっくり庭に降りて行った。一日の大仕事は終わり、若い人たちは村に戻り、夜の花火や射 撃大会の準備をしていた。あのドイツ特有の二輪馬車(V字型をしている) が一、二台ぶどう畑の門 の近くに停まっていた。すでに篭一杯に入ったぶどうが次から次へと葉で内張りをした荷台へあけ かえられていて、牛はおとなしくじっと出発を待っている。私は庭のガラス戸から部屋に入り安楽 椅子に腰を下ろした。丘の中腹では人々が帽子を取って牧師の周りに集まり、感謝の祈りが捧げら れているようであった。私も出来ればそこに行きたいと思った。九死に一生を得て今日のこの日を 迎えられたことを感謝し、敬虔な祈りを捧げたいと思った。やがて恒例の収穫祭の讃美歌 (422番 ----訳者注 * ) を歌い始めた。

      * われらたがやし 種をまけど、
雪霜おくり 雨をそそぎ、
日にてあたため かぜを吹かせ、
そだてたもうは ただ神なり、
よきものみな 神よりきぬ、
ゆたけき恵みを ほめ称えよ、

太く低い男たちの声に混じってもっと高い女性や子供の歌声が遥か彼方からかすかに聞こえて来た 。そして急に静けさが戻り、牧師が両腕をのばして皆を祝福し儀式は終わった。皆はもう一度散り 散りになり、ある者は村へ、ある者はぶとう畑の中へ残りの仕事を終わらせに行った。テクラが腕 にマックスを抱き、リーナが彼女のウールのスカートにまとわり付きながら庭を通ってこちらに戻 ってくるのが見えた。テクラは開いているガラス戸に近づいた。このガラス戸はぐるりと廻ってド アから家の中に入るよりもかなり近道だった。テクラが小声で聞いた。
 「通り抜けてもいいですか。マックスの具合が良くないんです。何も言わないし、目を覚ました のに変なんです。」
  彼女は子供の顔を私に見せた。熱で燃えんばかりに赤く、息も苦しそうで不規則に喘いで、半分 開いている目も虚ろであった。
 「確かにどこか悪いね。いつもらしくないのはおかしいね。子供のことは分からないけれど。」
  「かわいそうに」と、つぶやいて、バラの花びらのような唇をそっとマックスの頬に寄せた。そ の時、マックスの身体が小きざみに震え、指は不自然な格好にひきつり、とうとう全身をけいれん が襲った。深刻な状況を察知したのか、リーナはしくしく泣き出してしまった。
 「お姉さんに来てもらった方がいいね。早く医者に見せないと発作がひどくなったら大変だ。」
 「お姉さんもご主人もお茶に呼ばれて牧師さんの処へ行っています。ロットヒェンは使用人にパ ンやビールを持って行ったので、もっと上の畑でしょう。下働きの者かカール爺やを探して下さい ませんか。厩にいると思います。一刻も猶予できません。」私の答えをほとんど待たずに出て行っ た。階段をゆっくり踏み締めながら登るテクラの足音とパタパタというリーナの足音と泣き叫ぶリ ーナをなだめるテクラの低い声が入り混じって静まり返った家の中に響いた。
  私は疲れ切っていたが、これまで家族の一員のように良くしてもらっていたので、恩返しをする なら今だと思った。出来る限りのことをしてあげようと考えた。六週間前の忘れられない晩に私が この家に来て以来初めて街へ出て行った。私は最初に会った男に頼んで医者の家に案内してもらい 、医者を『半月亭』に直行させた。医者が私の身を心配して行くなと言うのも聞かずに、牧師館に 向かった。ご主人とお姉さんに一刻も早くこの状況を知らせたかった。
  牧師さんの部屋では晴着の人たちが暑さと疲労から開放されてくつろいでいた。テーブルには『 凝乳』やポテトサラダ、色々な種類のケーキなどドイツ人の好きなおいしいお菓子がならんでいた 。牧師さんがミュラーさんに話しかけ、その隣では、新しい半袖の白の薄手のブラウスを着て、ふ くよかな白い腕を出した、ういういしくなまめかしい美人のアンナ嬢が、コーヒーを注ごうとして いる。お姉さんはアンナの母親とお喋りの最中であった。アンナの弟や妹たちもそこに居た。そん な楽しそうな雰囲気のところに悪い知らせを持ち込むことは心苦しかった。私を見ると皆幽霊にで も出会ったような驚き様であったが、その知らせは幽霊よりももっと皆を慌てさせた。ミュラーさ んは帽子を手に取ると挨拶も忘れて飛びだして行った。お姉さんは弟の非礼を詫びた後私にいろい ろ質問をしたが、心ここにあらずといった風情で、ただ礼を失してはいけないという気持ちからそ の場にぐずぐずしていたのである。心優しい牧師夫人は、すぐに彼女の気持ちを汲んで彼女を行か せてあげた。牧師夫妻が親切にも私を引き留めて、一緒に夕食をと言ったので、私はへとへとに疲 れていたということもあって、喜んでそのお誘いをお受けした。やがて村の有力者たちがやって来 た。おかげで初対面の人たちとの全然関係のないドイツ語の会話についていくことから解放された 。ミュラーさんが突然出て行った時は、この美しいアンナ嬢の顔が少し曇ったが、すぐその輝きを 取り戻した。弟たちが美味しいものに手を出すとそれをそっと制止したり、時には小声で叱ったり して弟妹たちの面倒を見てやっていた。実は私もミュラーさん一家のことが気になっていたので、 充分休ませてもらって元気を回復してからおいとました。
 『半月亭』で会うことが出来たのはロットヒェンだけであった。他の人は次から次へと発作の起 こるかわいそうなマックスのことで忙しかった。私は帰る前にお目にかかりたいと医者に伝えても らう様ロットヒェンに頼んだ。疲れてはいたが彼が来るまで起きていた。やって来たのは相当遅い 時間で、彼の顔にも心配の色がありありと現れていた。彼は回復の見込みについて何も言おうとし なかったので、あまり希望がないのだろうと思った。それで私が恐れていることにふれると、
 「本当のところ、あなたと同様私にも分からないのです。彼の絶え間ない呻き声を聞いているの は誰にもつらいことですが、父親だったらなおさらでしょうね。かわいそうに、あの子が呻き声を あげるのは苦痛を覚えるからじゃなくて、もしテクラが彼を抱いて往ったり来たりするのをちょっ とでも止めると、とても悲しげに嘆くんですよ。その声を聞いたら人が間違った結婚をしない様祈 らずにはいられない程人の心を打つ響きがあるのです。子供は彼女の肩に頭をのせて、彼女は部屋 を往ったり来たり、その後ろをミュラーさんが付いて廻り、辛そうな顔をしている子供に向かって 、いろいろなおもしろい顔をして喜ばせようとしたり、チッチッという声であやそうとしたり、で もどれも効果は上がりません。明朝は早めにここに参りますが、今夜が山でしょうね。私の力では どうしようもありません」と、医者は言った。
 一晩中いやな夢に悩まされた----ぶどう畑----ぶどうの篭の代わりに小さな棺を乗せた荷車---- テクラの腕から死んだ子供を引っ張り取ろうとする牧師の娘----そんな夢にうなされ疲れ果てて、 目が覚めたのは朝も遅い時間で、明るい日の光が部屋に満ちていたが、誰も私を起しに来た者はい なかったのだ。それは生を意味しているのか、それとも死なのか。起きて出来るだけ急いで服を着 た。前日の疲れで身体中が痛かった。居間へ行くとテーブルに朝食の用意がされていたが誰もいな かった。私は家の中をどんどん進んで、階段を上って、誰か分かる人はいないかとやみくもに探し た。ある部屋のドアの処でロットヒェンが泣いているのに気付いた。私が行く筈のない場所だった ので、私を見て彼女はびっくりした。そして訳の分からない言い訳をした後、医者が危険は去った と言っていたこと、今は、テクラの腕の中ですやすやと眠っていること。テクラは一晩中そうやっ てあやしていたことなどをうれし涙を流しながら私に話した。
  「お客様、マックスを見てやって下さい。けれど静かに入ってくださいね。今日のあの子を見た らきっと安心されると思います。でもそっとお願いしますね。」
 ロットヒェンがドアを開けると、テクラはクッションや足台で支えをして坐り、重い子供を抱え 、この上もなくいとおしそうに彼をのぞきこんでいた。少し離れた処で、全く取り乱して涙にくれ たお姉さんが、熱いスープを掻き回して味付けをしていた。ミュラーさんは待ちきれない様子で彼 女の側に立っていた。スープの用意ができるとすぐに彼はその入れ物を取ってテクラの許へ行き、 とても小さい声で何かを言うと彼女は顔を上げた。看病疲れで青白い顔をしているが、ここ何週間 か見たこともない穏やかでほっとした表情をしているのが分かった。彼女の両手は子供を抱いて塞 がっていたので、フリッツ・ミュラーさんが彼女に食べさせ始めた。私はインチボールド夫人がう まく表現した、ミルナー嬢に食事を与える時のドリホースの心配、をふと思い浮かべた。もし私の 記憶が正しければ、それは、大切にしている自分の小鳥を失うようなことがあれば、楽しい筈の祭 の日も暗いものになってしまうと思う心優しい少年の心配に喩えたものであったと思う。私たちは 眠っている子を起こさないように静かにドアを閉めて部屋を出た。ロットヒェンが私にパンとコー ヒーを持って来てくれた。そして泣きたいのか笑いたいのか、無邪気からなのかちゃめっけからな のか、分からないがこう質問した。
 「お客様は今日テクラが辞めて帰ってしまうと思いますか。」
午後、私は臨時に置いてある衝立の後ろにテクラの足音を聞いていた。足音だけですぐ彼女と分 かった。衝立の向こうでちょっと立ち止まって気持ちを整えている様子であった。しかし、徹夜の 看病で彼女の目は腫れぼったく、表情には表れていなかったが、疲れ切った頭の中に何か言いたい ことを思い出そうとしているかのように、えくぼに手をやって言った。
 「お医者さまがマックスはもう大丈夫だとおっしゃったのでお知らせしようと思って。あとはお 医者さまの治療で治るそうです。」
 「ありがとう、テクラ。本当によかったですね。さっき先生が見えて、直接伺いました。」
  彼女は窓の処に行きちょっと外を見た。大勢の人たちが今日もまたぶどう畑にいたが、家庭内の 心配がある私たちは彼らにはほとんど注意を払わなかった。突然彼女は向き直って部屋の奥に来た 。彼女の顔は恥じらいで真っ赤だった。次の瞬間ミュラーさんが例のガラス戸から入って来た。
 「彼女からお聞きになりましたか。」彼はテクラの手を取り、幸せそうに顔中を赤く輝かせて言 った。
 「ぼくの友だちに君はまだ話していないの。」
 「ええ、話そうとしていたのですが、どう始めたらいいのか分からなくて。」
 「じゃあ君のセリフはぼくが教えてあげるよ。ぼくの後について、『私は強情でバカな女でした 。』」
  彼女は半分笑いながら、彼の手をそっと離すと、続けて言った。「私はフリッツと結婚の約束を したバカな女です。でも彼はそのバカな私と結婚したがっているので、もっとずっとバカな男です 。これでよかったかしら。」
 「私は牧師さんに付き添ってもらってバベッテをフランクフルトに行かせました。テクラに代わ ってバベッテがしばらくフォン・シュミット夫人に仕えることを牧師さんから説明してもらいます 。マックスが元気になって医者の勧める転地療養が出来る様になったら、テクラにあの子をアルテ ンアールに連れて行ってもらおうと思っています。もちろん私も一緒に行ってお父さんや家族の人 たちに認めてもらうつもりです。クリスマス前には結婚式を挙げますから、あなたも出席して一緒 に踊って下さいね。」
 「私は近々イギリスに帰らなければなりません。レーマーゲンまでご一緒できるといいですね。 今度ヘッペンハイムに来た時にまたお目にかかりましょう。」
私が計画した通りになった。私たちは素晴らしい諸聖人の日に一緒にヘッペンハイムを発った。 その前日、つまり諸死者の日に、ミュラーさんとテクラは幼いリーナを連れて墓参りに行き、リー ナの母の墓前に麦藁菊の花輪を捧げた。死せる者と生ける者とに平安あれ・・・

"Six Weeks at Heppenheim" (Cornhill Magazine, v, 1862)

相川暁子氏の連絡先
〒157 東京都世田谷区成城4-11-3 TEL: 03-3484-0680
【付記】相川暁子氏は平成17年2月17日に不帰の客となられました。


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