ギャスケル夫人の生涯と作品

 産業革命を契機に世界の綿工業の中心地となったマンチェスターの南、およ そ二十キロの所にナッツフォードという小さな町がある。ギャスケル夫人の父 ウィリアム・スティーヴンソンは、その近くのサンドルブリッジ・ファームに 住むサミュエル・ホランド(『従妹フィリス』のホルマン牧師のモデル)の娘 と一七九七年に結婚した。彼は大蔵省記録保管所の管理者であったが、牧師に なる訓練を受けた経歴を持つ有能な人で、四年間ほど実験農場に従事したこと もあり、それが高じて主要な雑誌に論文や書評などを寄稿していた。ギャスケ ル夫人(エリザベス・クレグホーン・スティーヴンソン)は、このようなユニ テリアン派の両親の第八子(兄のジョン以外はすべて夭折)として、一八一〇 年九月二十九日(土曜日)、ロンドンのチェルシー地区のリンゼイ・ロウ(現 在はチェイニ・ウォークの一部)で産声を上げた。しかし、エリザベスの母は 産後の肥立ちが悪く、彼女を出産して十三ヶ月後に亡くなってしまった。それ で、エリザベスは即座に亡き母の姉にあたるナッツフォード在住のハナ・ラム 夫人の養子となり、この古めかしい平穏な田舎町で暮らすことになる。彼女の 伯母は痛ましい理由で娘と二人だけの生活を余儀なくされていた。エリザベス は身障者だった娘のメアリ・アンの遊び友達になり、この従姉が結核で急死し たあとは、伯母を第二の母として敬愛した。そして、近隣にはホランド一族の 者たちが大勢いて、エリザベスの祖父の家によく遊びにきていたので、彼女は そういった人たちにも可愛がってもらっていたそうである。  非国教徒、特に三位一体説を排するプロテスタントの一派であるユニテリア ン派は、男子だけでなく女子に教育を受けさせることに重きを置いていた。そ うした理由で、エリザベスはフランス革命時の亡命者からフランス語とダンス の指導を自宅で受けたあと、十二歳でウォリックシャー州の村、バーフォード に住むバイアレイ姉妹の女子寄宿学校へやられた。この学校は一八二四年にシ ェイクスピアの生誕地ストラットフォード・オン・エーヴォンに移ったが、そ こでの教育の質は非常に高く、選択できる科目も幅広く、更には雰囲気も解放 的であった。つまり、彼女は自分の知性、そして田園趣味と調和した環境の中 で過ごすことができたわけである。一八二七年に卒業した時には、教養のある (友人たちの証言によれば、明朗快活で魅力的な)女性になっていたそうだ。 ナッツフォードに帰郷した彼女は、翌年たった一人の兄ジョンが行方不明にな ったという知らせを受け、ロンドンへ戻ることになった。東インド会社の仕事 で東洋へ行っていた兄が、どうして行方不明になったかは全くの謎だが、この 兄を失った悲しみは『クランフォード』におけるジェンキンズ姉妹の兄や『北 と南』のヒロイン、マーガレット・ヘイルの兄のエピソードとして描かれてい る。エリザベスはロンドンに戻ると、自分が四歳の時に父がかかりつけの医師 の妹と再婚していたことを知った。この義理の母と会った時、彼女は好感では なく反感を抱いたようで、『妻たちと娘たち』に登場するモリーの義理の母ギ ブソン夫人の性格づけは、この時の印象を反映していると言われる。エリザベ スはそのままロンドンに留まったが、一八二九年に父が亡くなると、銀行に勤 めていた伯父スウィントン・ホランドや医者をしていた従兄ヘンリー・ホラン ドの家に滞在した。この時の回想は『北と南』の冒頭に見られる。そのあと、 ヘンリー・ホランドの伯父で、イングランド北部の港市ニューカッスル・アポ ン・タインに住んでいた博愛精神が旺盛なユニテリアン派の牧師、ウィリアム・ ターナー(『ルース』のベンソン牧師のモデル)の家で二度の冬を、そしてコ レラ感染を避けるために彼の娘アンと一緒に行ったエディンバラでひと冬を過 ごした。この当時、若いエリザベスの美貌は常に賞賛の的で、エディンバラで は何人かの画家や彫刻家が彼女をモデルにする許可を求めたと言われている。  一八三一年の秋、エリザベスとアンはマンチェスターに住むアンの姉夫婦を 訪ねた。アンの義理の兄、ジョン・グーチ・ロバーズはユニテリアン派のクロ ス・ストリート教会の牧師で、エリザベスは彼を通して牧師補佐になりたての ウィリアム・ギャスケルと出会うことになる。恋に落ちた二人は一八三二年八 月三十日(木曜日)にナッツフォード教会で結婚し、ウェールズへ一ヶ月の新 婚旅行に出かけた。マンチェスターのユニテリアン派の集まりは文化生活の点 で傑出した存在であった。クロス・ストリート教会はユニテリアン派の中心地 となり、彼女の夫はそうした集まりの中心人物だった。ギャスケル夫妻は、夫 と妻、父と母という基本的な役割を否定したりしない、相互の自主性と性格を 尊重できる、そして感受性が鋭くて知性にあふれる人たちであった。結婚して 以来ずっと、相手の仕事や習慣に理解を示し、お互いに支えあっていたことは、 彼女が残した手紙が雄弁に語っている。ギャスケル夫人にとって結婚に伴う唯 一の損失は、マンチェスターに住むためにナッツフォードを離れなければなら なかったことである。現在のナッツフォードはマンチェスターから簡単に通勤 できる郊外にあるが、十九世紀前半は古風で静かな田舎町であった。結婚後お よそ十年間、ギャスケル夫妻はドーヴァー・ストリートに住み、そこから一八 四二年にアッパー・ラムフォード・ストリートへ移り、一八五〇年にプリマス・ グロウヴの家(現在はマンチェスター大学留学生協会の本部)に落ち着いた。 これらの家が位置していたのはいずれも、その当時はマンチェスターのはずれ だったのだが、彼女はこの都市の雰囲気に心身ともに強い影響を受けた。同時 に、彼女は産業都市マンチェスターの世界における指導的立場に感嘆し、そこ に生きる人々に敬意を表した。もっとも、空がどんよりした陰気なマンチェス ターに対して愛着と嫌悪が共存する態度は、初期の社会問題小説に現われてい るだけでなく、彼女が晩年の作品でナッツフォード的世界を強調したところに も見られる。  ギャスケル夫人は結婚後の十五年を家庭の仕事と社会奉仕に費やした。最も 悲しかったのは一八三七年にナッツフォードのラム伯母さんが死んだことだっ たが、この伯母は彼女に八十ポンドの年金を残してくれた。この間には創作活 動の兆しも幾つか見られ、彼女は十四行詩や物語詩などを書いている。一八三 八年に著名な作家であり編集者であるウィリアム・ハウイットが『名所探訪』 出版の意図を伝えると、ギャスケル夫人は手紙を書いて、ストラットフォード・ オン・エーヴォン時代に知ったクロプトン・ホールの話を提供した。この話は 喜んで受け入れられ、一八四〇年に彼女の最初の出版物として世に出た。この ハウイット夫妻との交友関係は長きにわたって続くことになる。このように、 彼女は何かを書きたいという衝動に時おり駆られることがあったが、一八四五 年のウェールズ旅行中に生後十ヶ月たらずの息子ウィリアムを猩紅熱で亡くし たあと、その衝動がはっきりとした形で現われることになった。彼女の夫は妻 を励ますために何かを書いて悲しみを紛らわせてはどうかと言い、生まれて初 めての小説に着手させたそうである。彼女は第一巻の原稿をハウイット夫妻に 送ったが、二人とも大いに満足してくれた。この本は一八四七年に脱稿となり、 複数の出版社へ送られた。いつもながらの返事の遅さに、彼女はそのことをす っかり忘れていたようだが、最終的にチャップマン・アンド・ホール社によっ て百ポンドで買い取られた。こうして、「マンチェスターの生活」という副題 を持つ『メアリ・バートン』が、一八四八年十月十八日に匿名で出版され、一 大センセーションを巻き起こしたのである。トマス・カーライルは賞賛の言葉 に満ちた祝福の手紙をくれ、マライア・エッジワースは死の直前だったにもか かわらず、この小説の重要性を熱烈に語った。   『メアリ・バートン』は標準的なロマンスの筋に沿って展開する。母のいな い職工の娘、メアリ・バートンは工場主カーソンの息子にだまされそうになる。 その筋と平行して、不況の波がマンチェスターを襲い、労働争議の気運が高ま る中、組合の抗議運動として工場主の息子を殺すために、くじ引きでメアリの 父ジョン・バートンが選ばれる。彼は殺人の罪を犯すが、皮肉にもその嫌疑は 娘のメアリのことを愛しているジェム・ウィルソンにかかる。紆余曲折を通し て、メアリの身を持ち崩した叔母エスターによって真実が明らかにされ、死刑 の判決を受ける直前に、ジェムは危機一髪のところを助けられる。結局、死に 際にバートンは息子を殺されて復讐心に燃える雇主カーソンと和解し、メアリ とジェムはカナダに移住する。しかし、このようなプロットの要約では、この 小説が持つ迫力の「は」の字も伝えることはできない。読者の心に迫ってくる のは、マンチェスターの悲惨な生活や、ジョン・バートンを殺人に追いやる苦 境に関するギャスケル夫人のリアルな描写である。その社会観察の正確さは『イ ギリスにおける労働者階級の状態』(一八四四-四五)におけるフリードリヒ・ エンゲルスのそれとよく比較される。   問題の解決としてキリスト教の倫理に頼るのは安易すぎると言えなくもない が、『メアリ・バートン』には決して重苦しい感じはない。マンチェスターの 工場主やロンドンの保守系新聞は、この小説が雇主たちに対して公平でないと 不満を示したが、批評家たちは作品の質やエピソードに添えられたユーモアを 高く評価した。一年もしないうちに匿名は見破られ、ギャスケル夫人はロンド ンの文学界でもてはやされるようになる。この新人作家は流行作家ディケンズ によって心からの歓迎を受けた。一八四九年五月にギャスケル夫人は彼と一緒 に食事をしたが、そこには『デイヴィッド・コパフィールド』の第一分冊の出 版を祝うために、カーライルやサッカレーをはじめ、有名人が多く同席してい た。一八五〇年のはじめ、ディケンズが週間雑誌『暮らしの言葉』の創刊を計 画していた時、ギャスケル夫人はこの上ない賛辞の言葉で寄稿を要請され、そ の年の三月三十日に出版された新雑誌の創刊号には、ワーズワース的な罪意識、 自責の念、悔い改めを扱った彼女の短編小説「リジー・リー」が巻頭を飾って いた。以後、編集者ディケンズと寄稿者ギャスケル夫人との間には、双方に時々 いらだちが見られはしたものの、長い交際が始まることになる。    『メアリ・バートン』出版以前にも、すでに幾つかのマイナーな物語が他の 定期刊行物に掲載されていた。一八五一年の末までに更に十点の作品が出版さ れたが、その中には彼女の中編小説(ヌーヴェル)の最初となり、シャーロッ ト・ブロンテが絶賛した穏やかな田舎を舞台とする恋物語『荒野の家』が含ま れている。それから、彼女の一番有名な作品『クランフォード(女だけの町)』 が世に出ることになる。『クランフォード』の最初の二章にあたる「クランフ ォードの社交界」は、『暮らしの言葉』の一八五一年十二月十三日号に掲載さ れた。これは一八四九年にアメリカで最初に出版された「イングランドの最後 の世代」という初期のエッセイを小説化したものである。クランフォードの町 では、生まれはいいが収入の少ない御婦人たちが、節約しながらも優雅に服装 と礼儀作法の伝統を守っている。変わり行く前のナッツフォードを書き留める ために、ギャスケル夫人は自分が少女時代を送った時にすでに時代遅れとなっ ていた生活様式を、ユーモアと愛情を注いで再現した。そういった点にこそ『ク ランフォード』の魅力があると言ってよい。このような御婦人方の服装や行動 は風変わりではあるが、彼女たちが見せる本質的な人情と善意はいつまでも読 者の記憶に残るのである。クランフォード(ナッツフォード)とドランブル(マ ンチェスター)は対照をなす価値観と生活様式を象徴している。そこには当時 の社会や産業の急速な変化によって引き起された、人々の態度の変化について のギャスケル夫人の正しい認識が見られる。彼女は伝統的な価値観を描きなが らも、新しい社会と思想が望ましくて必要なことを認識していた。だからこそ 作品の中で因襲と革新を調和させようとしたのである。    『クランフォード』のもともとのエピソードは、上品な節約の主導者デボラ・ ジェンキンスと彼女の妹マティーを軸に創作された。そして、新たに年配の男 やもめブラウン大佐が二人の娘を連れて、この田舎町に移り住むようになる。 この家族は女武者のみからなる部族アマゾーンのような男まさりでたくましい 御婦人方に受け入れられ、ブラウン大佐は男であるにもかかわらず、その腹蔵 ない正直さで彼女たちを首尾よく味方に引き入れる。しかし、大佐の長女は最 後に病死し、その死に際に大佐もまた子供を助けようとして汽車に轢かれて死 んでしまう。そして、次女に忠誠を誓ったゴードン少佐が戻ってきて、彼女と 結婚する。ギャスケル夫人としては最初の二章で完結させるつもりだったが、 ディケンズが『暮らしの言葉』の編集長として彼女にもっと書いてくれと懇願 したので、一八五二年一月から翌年五月までの間(『ルース』執筆に集中する ために途中で間隔があくことがあったものの)、不定期的に幾つかのエピソー ドが更に掲載されることになった。その間に、ギャスケル夫人の関心が他の方 向に移り、作品構造も変わってしまった。彼女は評論家で社会思想家のジョン・ ラスキンに次のように語っている。「『クランフォード』の最初の部分は『暮 らしの言葉』のために書いた一断片にすぎません。更に書き加えるつもりなど なかったので、自分の意思に背いてブラウン大佐を殺してしまったのです。」 このエピソードを膨らまして連載物にするために、彼女はデボラを始末し、心 やさしい妹マティーを中心人物に据え、最後にインドから舞い戻ってくる行方 不明の兄を軸に、基本的なプロットを展開させていった。しかし、その関心の 対象は依然として人情、人間関係、そして社交界の礼儀作法に向いたままであ った。死ぬ数ヵ月前に、ギャスケル夫人はラスキンに対し、「これは私が書い た本の中で、再読に耐えうる唯一のものです。私は病気になった時は迷わず『ク ランフォード』を選びます。読んで笑うことでしょう。間違いありません。だ って、灰色のフランネルの上着をまとった雌牛を見たのは本当なんですか ら・・・」と打ち明けている。晩年の作品で彼女はナッツフォード的世界へ回 帰したが、この作品ほど楽しいものは二度と生まれなかった。   一八五〇年八月、ギャスケル夫人は湖水地方にあるジェームズ・ケイ=シャト ルワース卿の別荘を訪問中に、そこでシャーロット・ブロンテと知り合いにな った。シャーロットは五一年、そして五三年にマンチェスターのギャスケル家 を訪問した。ギャスケル夫人はシャーロットが本当に大好きになり、同時にと ても彼女の境遇を哀れに思った。五三年の秋、彼女はブロンテ姉妹の住むハワ ースを初めて訪れた。一八五一年から翌年にかけて、ギャスケル夫人はチャッ プマン社が五百ポンドで買い取ることになる『ルース』もまた手がけていた。 彼女がプロットの初期段階で下書きを送った相手であるシャーロットは、批評 家たちが『ルース』だけに集中できるように、自分の出版社にかけあって『ヴ ィレット』の出版を数日のあいだ延期させるほど、それほど親友の小説を賞賛 したと言われる。   『ルース』の主題はまたもや論争を巻き起こした。今回は堕落した女をほと んど不可避的に売春婦として村八分にしてしまう、そうした因襲的な道徳観に 支配された陣営の怒りが、論争の火に油を注ぐことになった。売春婦をオース トラリアに移住させるというクーツ女史の計画に協力したディケンズの影響を 受けて、こういった主題を選んだのかもしれないが、実際にギャスケル夫人は すでに『メアリ・バートン』の中でエスターを使って、堕落した女の問題に触 れていたのである。これまでと同様に、彼女は自分の知っている人々や背景に 基づいて描いた。世慣れない非国教派の牧師サーストン・ベンソンは、金持ち の息子ベリンガムに誘惑されて捨てられたルースの世話をし、彼女の不義の子 を一緒に育て、彼女が後家であるという嘘がばれた時にも、彼女の味方をする。 コレラが蔓延する中、看護婦となることでルースが堕落した我が身をあがない、 彼女をもてあそんだベリンガムの世話をしながら死んでいくというメロドラマ 的な結末は、まだギャスケル夫人がプロットのために、そうした劇的な結末に 頼らざるを得なかったことを示している。この小説の力強さは、寛容さと厳し い道徳観が真っ向から衝突する時、非国教徒からなる小さな地域社会の人間が、 社会的にどのようにふるまうかを描き出した点にある。新興ブルジョワジーの ブラッドショウ氏は独善に関する素晴しい研究の成果であり、一年後にディケ ンズが『ハード・タイムズ』で滑稽に描いた自称セルフメイド・マンの銀行家 兼工場主、バウンダビー氏に明らかに影響を与えた人物である。ギャスケル夫 人は近代看護学確立の功労者であるフローレンス・ナイチンゲールの家族と交 流があった。批評家A・W・ウォードはナイチンゲールが『ルース』を素晴し い作品と思っただけでなく、「冒頭からすぐにルースを病院の看護婦とするの ではなく、他にも色々と看護の経験をさせたのちに看護婦になるようにした」 点を賞賛したという話を引用している。ギャスケル夫人は自分がどういう状況 について書いているのかを知っていた。その証拠に、コレラが流行した時に彼 女がマンチェスターで牧師の妻として経験したことは、この小説で当時の医療 の現実を十分に反映した形で活写されている。   『ルース』はショックを受けたモラリストたちからの反発を即座に招いたが、 この質の高い、勇気ある作品を多くの批評家や読者がほめたたえた。そういっ た攻撃を受けてギャスケル夫人は病気になってしまったが、自分の作品に対し ては「小説にふさわしくない主題であるからこそ、そのことについて意見を言 わざるを得ないのです。私は以前そのように思っていましたが、今こそ声を大 にして自分の考えを言うことに決めました」と述べて弁護した。とはいえ、『ル ース』は自分の娘たちに読ませてならない本であることをギャスケル夫人は認 めていたようである。   次に、ギャスケル夫人は幾分いやいやながらであったが、『暮らしの言葉』 に長編小説を連載してほしいというディケンズの頼みを受け入れた。それは彼 女の最後の社会問題小説となる『北と南』である。これに取りかかる前に彼女 は旅に出て友人を訪ねた。特記すべきは一八五三年九月のハワース訪問である。 そこで生前のシャーロット・ブロンテに会ったのは、これが最後だった。新た にできた友人としてはパリのサロンの主催者マダム・モールがいる。そのパリ の家はギャスケル夫人がやがて何度となく外国を訪問する際の基地となった。 五四年のはじめ、この小説に彼女は着手したが、まだタイトルも決まっていな かった。彼女はその頃『ハード・タイムズ』を連載中のディケンズに対し、自 分が小説の中心的なエピソードにしようと考えているストライキを、彼もまた 題材として使うのかと熱心に尋ねた。この場面では、ジョン・ソーントンがア イルランドの移民たちをスト破りとして雇っている木綿工場を、怒り狂ったス トライキ参加者たちの群集が襲撃しようとする。あからさまな剽窃を心配して いたギャスケル夫人に対し、ディケンズはそういう詳しいストライキの場面を 『ハード・タイズム』で描くつもりはないと言って安心させた。『北と南』の 背景はまたもやマンチェスターで、今回はミルトンと呼ばれている。ヒロイン のマーガレット・ヘイルはイングランド南部の田舎町ヘルストーンで生まれた 育ちのよい娘で、ほとんど金も地位もなくなって、工業化された厳しい北部の 都市へ両親とともに突如として投げ込まれる。そして工場主ソーントンが彼女 に恋をする。最初、二人は相手の社会的背景を蔑視していたが、それぞれの背 景がそなえた特性を途中から正しく認識するようになり、最終的に相互の価値 を理解するようになる。   『北と南』の筋の展開は決して単純ではない。プロットだけでなく、様々な テーマや一連の階級間、人間間の関係を明らかにするためのサブプロットまで が、複雑な構造をなしている。イングランド南部で田舎牧師をしていたマーガ レットの父ヘイル氏は、伝統的な信仰箇条に疑問を抱き、聖職禄を辞して北部 へ移り住む。ミルトン出身の裕福な友人の忠告に従って、いったんヘイル家の 北部への移動がなされると、小説は計画的に力強く展開していく。雇人と雇主、 労働組合員と非組合員、富と貧困、偏見と偏見が対立する中、幾層もの階級間 の緊張が示される。ヘイル氏は古典を教える個人教授となり、ヘイル夫人はか たくなに上流意識を持ち続けながら、次第に気力が衰えて死んでしまう。労働 者のリーダーであるニコラス・ヒギンズは無神論者であったが、工場のひどい 労働環境が原因で肺病を患って死んでいく娘のベッシーとマーガレットの友情 を通して、少なくとも宗教に対しては敬意を抱くようになる。ここでもまたギ ャスケル夫人は行方不明になった兄ジョンを思い起こさせるサブプロットを使 っている。マーガレットの兄フレデリックは海軍将校だったが、サディスティ ックな大佐に楯突いた結果、反乱の責めを受けて外国に住まねばならなくなる。 彼は死に際の母に会うために名を変えて戻ってくるが、マーガレットの隠れた 恋人ではないかとソーントンから疑われる。込み入った話を支える幾つものサ ブプロットが、ギャスケル夫人の常用する主題である理解と和解を通して、大 円団に向かって進んでいく。ストライキのあとソーントンは失業中のヒギンズ に仕事を与える。財産を受け継いだマーガレットは、ソーントンの工場を救っ ただけでなく、ヒギンズと一緒に労働条件を改善するという試みを破産のため に台なしにしてしまったソ−ントン自信をも救ってやる。そうして最後にマー ガレットとソーントンは結婚する。   このようなコントラストとテーマは、プロットの要約だけではとても示すこ とができないほどの力強さと不思議な魅力を備えている。たとえば、ヘルスト ーンの美しさはミルトンの醜さと対照をなすが、美しさが無知と残酷さを隠す 仮面であるのに対し、醜さは知性と活力を隠す仮面となっている。更に、ヘル ストーンとミルトンの価値観は、贅沢で怠惰なロンドンの上流階級と並列され ている。『北と南』は、すでに頭をもたげていた新しい産業都市のパワーを読 者に周知徹底させ、人々の先入観をひっくり返した。この小説は、一八五四年 九月二日から翌五五年一月二十七日にわたって『暮らしの言葉』に連載され、 その年の間に幾つかの小さな点が変更され、再出版された。これはギャスケル 夫人の最も巧みで、最も面白い物語の一つである。少なくとも結末付近まで、 その構成力には目を見張るべき進歩がうかがえる。彼女の経験が広がり、政治 への関心が深まった結果、社会問題への判断力は成熟した考えに基づいた公平 なものとなっている。   ギャスケル夫人が全部で六百ポンドを得た『北と南』には、幾つかの点で彼 女の作家としての進歩が見られる。まず第一に、彼女は意識して古い田園社会 と新しい産業社会との比較をしている。田舎と都会が比較される時、新しい社 会が優位に立つ。その証拠に、マーガレットは「世の中は変化がなければ後退 するだけです」と言っている。第二に、ヒロインの情緒的・知的成長に関する 詳しい分析を中心に、複雑なプロットがしっかりと時間的に沿って構造化され ている。『北と南』において、ギャスケル夫人の小説家としての自信を示すも のとしては、自分の書き方を修正してディケンズの好みに合わせることを遠回 しに拒んだことが挙げられる。事実、『北と南』は週間連載にはあまり適して いない。ディケンズが欲求不満をつのらせたことは理解できるが、凝縮せざる を得なかった作品の結末について、彼女は単行本での出版の時に書き直してし まった。彼女は制約の緩やかな『コーンヒル・マガジン』に書くようになって、 ようやく再び長編小説を連載する気になったのである。   『北と南』の完成後、いつものようにギャスケル夫人は外遊することで疲れ をいやした。今回はパリとロンドンである。そして外遊中に、彼女はシャーロ ット・ブロンテが三月三十一日に死んだという知らせを受けることになる。驚 いたことに、シャーロットの回顧録のことを考えていた時、この親友の父と夫 が二人そろって、彼女に正式な伝記を書いてくれるようにと依頼してきた。そ うして、六月十八日、彼女はブロンテ姉妹の作品を出版していたジョージ・ス ミス宛に、伝記執筆を引き受ける旨の手紙を書いた。以後二年間、彼女はこの 執筆だけに従事することになる。精を出して仕事に専念し、骨身を惜しまず描 写の正確さに心がけた。入念な調査のためにシャーロットが留学したブリュッ セルでは二週間を費やしたほどである。一八五七年の春、ついに伝記は出版の 準備ができ、ギャスケル夫人は二人の娘を連れてローマへと旅立った。『シャ ーロット・ブロンテの生涯』は三月二十五日に出版され、スミス社は彼女に八 百ポンドを支払った。   『シャーロット・ブロンテの生涯』はたちまち大成功を収め、偉大な伝記の 一つとして地位を確立した。ギャスケル夫人は当時の慣例に従った(たとえば、 シャーロットのブリュッセル時代の恩師エジェ氏に対する愛情を包み隠さずに 書くことをしなかった)にもかかわらず、これは真実を追求した点で率直かつ 完全な伝記だと言える。今なお『シャーロット・ブロンテの生涯』は、ひとき わ優れたヒロインの成長と動機に関する詳細な描写として、また著名なブロン テ家とその背景についての詳しい研究としての価値を保っている。   しかしながら、この伝記に対する反応はギャスケル夫人自身に大変な苦痛を もたらした。最初に訪れた賞賛の波に続いて、すぐさま伝記で扱われた関係者 の何人かから、激しい抗議の波が押し寄せた。訴訟も辞さないというケースも 幾つかあった。要するに、これらのケースではブロンテ家に対する共感のあま り彼女の判断が影響を受け、偏った見方をしてしまったのである。夫とジョー ジ・スミスの助けによって、この問題は法に訴えられることもなく解決した。 しかし、スコット令夫人のケースでは、家庭教師を首になったことに関するブ ランウェル・ブロンテの説明をギャスケル夫人がうのみにし、その理由を彼が 雇主の奥さんの誘惑を拒んだからだと書いたために、その箇所の取消声明を『タ イムズ』紙で公表しなければならなくなった。ギャスケル夫人はシャーロット の親友であるエレン・ナッシーに対し、「私は復讐という大変な面倒を背負い 込んでいます」という悲しげな手紙を書き送っている。結局、修正された第三 版が一八五七年八月二十二日に出版された。これが現在のスタンダード版とな っている。   『シャーロット・ブロンテの生涯』が成功したのは、ギャスケル夫人が小説 を書くようにそれを書いたからである。同じ年、彼女はもう一つ(政治家の) 伝記を書いてくれというジョージ・スミスからの要請を断ったが、その際の彼 女のコメントには鋭い自己分析が見られる。「私が書きたいのは、ある特定の 時代の人物と風俗習慣です。前世紀のヨークシャーを生きた偉大な地主の伝記 ならば、結構うまく書くことができると思いますが、政治家ではどうすること もできません。」人物、風俗習慣、特定の時代、特定の地域社会、それが彼女 の生まれながらに得意とする分野であった。しかし、彼女がヨークシャーと前 世紀のことについて触れたのは、非常に興味深い。なぜならば、これが彼女の 次作『シルヴィアの恋人たち』の背景となるからである。この小説はその雰囲 気と心理的洞察の幾分かを『シャーロット・ブロンテの生涯』に負っているの である。   『シャーロット・ブロンテの生涯』が出版される前に、正確には一八五七年 二月十三日にギャスケル夫人はイングランドを離れ、カーニヴァルが催されて いたローマに行き、そこに住むアメリカの彫刻家ウィリアム・ウェットモア・ ストーリーの客となった。この時の休暇はその後いつも、ローマ自体から得た 印象だけでなく、ストーリーの友人であった(のちにハーバード大学で美術史 の教授となる)若きチャールズ・エリオット・ノートンとの生涯にわたる友情、 批評家ウィニフレッド・ジェランの表現を借りれば、「半ば母性的、半ばプラ トニックな」友情の始まりとして、彼女の人生の中でも最高の時として思い起 こされた。二人の間の手紙はギャスケル夫人の晩年を知る上で貴重な情報源と なっている。『シャーロット・ブロンテの生涯』に加えられた非難が、正当な ものであろうとなかろうと、ギャスケル夫人の心に書くことへの嫌悪感を一時 的に呼び起こしたことは否定できない。それにもかかわらず、彼女の生活はい つものように積極的な知的活動、社会への奉仕、家庭の幸せを中心に進んでい った。元気を回復して帰国すると、彼女を待っていたのは例の伝記に関する「大 変な面倒」、そしてマンチェスターの生活と小説家としての仕事の再開であっ た。   伝記執筆の時に始まったギャスケル夫人と出版業者ジョージ・スミスの関係 は、この頃までには商売だけでなく友人としても進展していた。彼女は一八五 九年の末頃には「捕鯨の一等銛」のことで彼と連絡を取りあっていた。スミス の新しい定期刊行物『コーンヒル・マガジン』は、一八六〇年にディケンズが 『暮らしの言葉』の後継雑誌として創刊した『春夏秋冬』よりも、彼女の晩年 の作品に適した発表の場を提供することになった。つまり、作品の長い区切り や月間雑誌という形態の方が、彼女の書くような小説には適していたし、彼女 もそうした雑誌に自分のよい作品を取っておきたいと思ったのである。『シル ヴィアの恋人たち』が『コーンヒル・マガジン』に連載された理由は、「一巻 本の物語を分冊で掲載するのはいやです」というスミス宛の手紙にはっきりと 示されている。『シルヴィアの恋人たち』の完成までは、ギャスケル夫人にと って特に精力的な期間だった。家では忙しい牧師の妻として、そして四人の娘 たちの将来を心配する母として、やらなければならない色々なことがあった。 一家の主婦として、著名な作家として、多くの訪問に時間を取られた。一八六 一年にマンチェスターが英国科学振興協会の年次総会を主催した時などはいい 例で、彼女の家は訪問客で一杯になった。しかし、マンチェスターが彼女の健 康と気分に及ぼした影響を考えると、たとえいつものように執筆の合間であっ ても、(大好きなシルヴァデイルの海辺であろうと、ハイデルベルクやパリで あろうと)彼女には休暇が絶対に必要であった。彼女は旅をしながら題材を集 め、マイナーな物語や記事を素早く書き上げ、主としてディケンズに送ること で、外遊のための資金を稼ぐことがよくあった。その意味で、『シルヴィアの 恋人たち』の舞台を調査するために、一八五九年十一月に娘たちを連れて、ノ ース・ヨークシャー州の港町ウィットビーへわざわざ出かけたのは、彼女にと って特別なことだったと言える。   この小説は最初すごい勢いで書かれたが、家事や家庭内の問題で一八六〇年 の暮れには、まだ四分の一しか終わっていなかった。作品の執筆は断続的に進 められ、六一年から六二年にかけて一時的に『フィリップの偶像』というタイ トルが付けられたが、その大半はギャスケル夫人の旅行中に書かれたものであ る。作品を書き終える前のことだが、アメリカ南北戦争による綿花不足で一八 六二年に供給がストップし、マンチェスターはたちまち不況に陥った。それで 彼女はこの問題を気分転換に取り扱ってみようという気になった。そういった 気持ちは、九月にサセックス州の海岸町イーストボーンで執筆に専念していた 時、彼女がスミス宛に書いた手紙の中に表われている。「私たちはマンチェス ターへ(そして抑圧的な環境の中、人を心身ともに疲れさせる仕事へ)戻らな くてはなりません。」彼女の想像力と生命力を衰えさせた、そうした不況と疲 労感は『シルヴィアの恋人たち』の最後の巻にはっきりと感じ取れる。この小 説は年末までに書き上げられ、彼女は十二月三十一日にスミスから千ポンドの 支払いを受けた。そして、翌六三年二月に『シルヴィアの恋人たち』は、「愛 する夫へ、その価値を一番よく知る者より」という献辞とともに、三巻本とし て出版されることになる。   『シルヴィアの恋人たち』におけるテーマの多くは、この小説に影響を与え た初期の作品に見出すことができる。ウィットビー(小説ではモンクスヘイヴ ン)の背景、捕鯨産業、強制徴募隊に対する一揆などは、彼女が前に書いた短 編の中で扱った資料であり、プロットのクライマックスとなる死んだはずの夫 が帰還する話は、一八五八年の『暮らしの言葉』のクリスマス特集号に載った 「マンチェスターの結婚」で使われたものである。『シルヴィアの恋人たち』 は幾分メロドラマ的であるものの、力強い物語の中心を占めるのは、ヒロイン のシルヴィア・ロブソンである。シルヴィアの中にギャスケル夫人は、小説の 四分の三までは欠点を見出すことができない、それほど彼女の作品では比類の ない激しい情熱を描き出した。ギャスケル夫人は自分自身の娘たちが成熟し、 喜び、苦しむのを見てきたし、シャーロット・ブロンテの生涯について深く考 察したという経験を持つ。そうした経験はすべて彼女の想像力の中でシルヴィ アの物語に結集された。シルヴィアは初めのうち従兄のフィリップを蔑視し、 捕鯨の一等銛キンレイドに恋をする。キンレイドは強制徴募隊に連れ去られ、 フィリップは彼が死んだという偽りの報告をする。父が暴動の責めを負って処 刑されたあと、気を滅入らせたシルヴィアはフィリップを夫として受け入れる。 こういったエピソードが互いに溶接された『シルヴィアの恋人たち』は、読者 の関心をつなぎ止める緊密な構成の語りとなっている。いつものようにギャス ケル夫人は、ここでも地方の情景や庶民生活の描写において秀でている。とは いえ、この小説に力強さを与えているのが、シルヴィアの激しい感情と生命力 であることは間違いない。ギャスケル夫人の人生観は悲劇的なものを受け入れ ようとするものだが、それは換言するならば、世界は人間の努力によって改善 できるという考えである。『シルヴィアの恋人たち』の最初の二巻はエネルギ ーがあふれており、シルヴィアの性格同様に、生き生きとしたユーモアに満ち ている。しかし、姿を消したフィリップがこっそりと帰郷し、死ぬ前に自分の 娘の命を救い、最後に妻と和解する結末は、不自然な作り事の感を幾らか呈し ていると言わざるを得ない。   一八六三年頃、ギャスケル夫人は以前より静かな、あまり精力的ではない生 活様式に移っていた。パリでの休暇から戻って、ジョージ・スミスから『コー ンヒル・マガジン』のために物語を要請された時、彼女はすでに書き始めてい た中編小説『従妹フィリス』を差し出すことができた。他の幾つかの短編と一 緒に、この小説の版権を彼女は二百五十ポンドで売った。それで『従妹フィリ ス』は一八六三年十一月から翌年二月にかけて連載されることになる。ナッツ フォード的世界に基づいて、ギャスケル夫人が『従妹フィリス』で創造した地 域社会は、時代の変化を受けていた。フィリスが密かに愛していたホールズワ ースは、カナダで結婚したという旨の葉書を寄こし、彼女の希望と健康を粉み じんにしてしまうが、この葉書は一八四〇年に創設された一ペニー郵便制によ るものである。一八六二年十二月十二日には鉄道がナッツフォードに開通した が、この作品で描かれる鉄道は、物理的にはディケンズの『ドンビー父子』(一 八四六-四八)の場合ほど破壊的ではないものの、発達した産業と新たな種類の 人間をホープ・ファームという田園的な舞台へ導いてきた。ギャスケル夫人の 祖父が住んでいたサンドルブリッジ・ファームを思い起こさせるような、まだ 肉体労働と健全な道徳観に基づいた安定した世界に変化がもたらされることに なる。   『従妹フィリス』は筋が錯綜した物語ではない。見所は物語の展開と語りの 手法にある。鉄道開発で技師の見習いをしている十九歳のポール・マニングが 初めて従妹を訪れた時、彼は「君に会ったあと数日、ぼくの服には野バラと洋 種ハクセンのにおいがしみついていたよ」と言うが、これはどこか牧歌的な田 舎の奥まった所へ迷い込んだような感覚を表わしている。そうした新旧二つの 世界の接触から変化が生まれる。そしてポールの上役で当世風のホールズワー スに対する恋心によって、フィリスはおとなしい少女から悩める女性へと変化 し、失恋によって健康を害してしまう。野心家のホールズワースは、自分の仕 事に後押しされてフィリスとホープ・ファームを乗り越え、出世のためにカナ ダへ渡るが、同時に感受性のなさと道徳的眼識のなさが彼の欠点としてそれと なく示される。フィリスは最後に健康を取り戻すが、健康の回復のための転地 に同意する時、次の彼女の言葉は時代の変化に対する皮肉な含みを持っている。 「ほんの短い間だけよ、ポール!その後は−−私たち、昔のような平和な状態 に戻るのだから。そうなるわ、そうできるわ、そうしなきゃ!」   ギャスケル夫人の中・短編小説の中で、多くの批評家が最高傑作と見なす『従 妹フィリス』は、最後の小説『妻たちと娘たち』にふさわしい序曲となってい る。『妻たちと娘たち』のアイデアは、すでに彼女の頭の中で細部にわたって 進展していたので、彼女は一八六四年五月三日に完全な梗概をつけてジョー ジ・スミスに手渡すことができた。ある個人的な計画を実現させたいという彼 女の願いもまた、この小説を仕上げる際の刺激となった。つまり、夫の定年後 と独身の娘たちのために(実際には、一八八四年にマンチェスターで死ぬまで、 彼が牧師をやめることはなかったのだが)、健康に悪いマンチェスターから脱 出できるようなイングランド南部の田舎に、家を買うことを彼女は考えていた のである。ついにギャスケル夫人はロンドンから四十マイルほど離れたハンプ シャー州オールトン付近のホリボーンに待望の家を見つけ、それを『妻たちと 娘たち』の執筆でスミスから得た二千ポンドをもとに購入した。しかし、彼女 自身は健康がすぐれず、いつも決まった量の仕事をしなければならない圧迫で 疲れ切っていた。そして、一八六五年十一月十二日(日曜日)の午後、彼女は 新しく購入した家で三人の娘たちと談話中に、その墓碑銘によれば「何の警告 もなく」心臓病に襲われ、帰らぬ旅の人となってしまった。ギャスケル夫人は ナッツフォードにあるユニテリアン派のブルック・ストリート教会の小さな傾 斜した墓地に埋葬され、彼女の夫も十九年後に彼女のとなりに埋められた。   「日常の物語」という副題を持つ『妻たちと娘たち』は、一八六四年八月か ら六六年一月にかけて『コーンヒル・マガジン』に連載された。彼女の急死に よって最後の分冊は書かれなかったが、結末は分かっていた。現存する小説は 完成したも同然だった。この小説のプロットは複雑である。それは劇的な作品 構成というよりは、ナッツフォードをモデルとするホリングフォードの階級の 違う家族間に見られる一連の人間関係に支えられている。舞台は『クランフォ ード』や『従妹フィリス』と同じように漠然とした時代に設定されているが、 ギャスケル夫人が少女時代を送ったナッツフォードは、ずっと大きな地域社会 として新たに別の解釈がなされている。彼女の成熟した芸術性と判断力は彼女 の生来の関心、特にヒロインの人物像と、いわゆるアンチ・ヒロインに対する 関心と実にみごとに融合している。シンシア・カークパトリックの中に、ギャ スケル夫人はシルヴィア・ロブソンほど悲劇的ではない、しかしより魅力的で 洗練された個性を創造した。シンシアほど複雑ではないが、対照的な性格とし て描写される義理の姉モリー・ギブソンは、前途有望な科学者ロジャー・ハム レイと結婚することになる。この男の職業と性格は、ギャスケル夫人の遠縁に あたる進化論の提唱者チャールズ・ダーウィンに基づいており、伝統的な価値 観と新しい概念の結合を体現している。しかし、間違いなく一番の出来は、シ ンシアの実母でモリーの継母であるギブソン夫人である。その話し方と振るま いを通して、ギブソン夫人は虚栄心の強い、どうしようもないほど了見の狭い (まったく意地が悪いというわけではない)性質をユーモラスに、かつ皮肉た っぷりに賞賛してできた人物である。このように、ギャスケル夫人が見ている 世界は、救いようのない本当の意味での悪漢がいない世界である。言い換えれ ば、難儀や苦しみというものは、つらい生活、利己心、他人の気持ちに対する 感受性のなさ、道徳的規範のなさによって引き起こされるのである。自分の画 策によってモリーに重大な災いをもたらしたカムナー伯爵家の支配人プレスト ンでさえ、罪を犯すと同時に自分に対しても犯されるという読後感を我々に与 える。   ホリングフォードは、村一番の金持ちから商人にいたるまで、社会が科学技 術、ふるまい、思想を問わず、変わり行く世界と取っ組み合わねばならない、 そうした共同体として描かれている。『妻たちと娘たち』の連載は期間が長く、 ゆったりしたペースだったので、ギャスケル夫人は日常生活と人間心理を細か く描くことができた。誠実で善良なモリー・ギブソンは彼女が所属する階級(彼 女はレディーである)だけでなく、性急な所や不自然な所が見られない彼女の 精神的成長においても、それまで作者が描いたヒロインたちとは違っている。 『妻たちと娘たち』を通して、ナッツフォードの世代に対するユーモラスな、 皮肉のこもった、時には風刺的な見方が、深刻な基調とともに展開され、我々 はギャスケル夫人の小説家としての自信と成熟を強く感じずにはおれない。   ギャスケル夫人の死のほんの数ヶ月前、ジョルジュ・サンドは次のように言 った。「ギャスケル夫人は私や他のフランスの女流作家ができないことを成し 遂げました。彼女は世の男性にこの上ないほどの深い関心を呼び起こす小説を 書いただけでなく、少女が読めば必ずよい女性になる類の小説を書いたので す。」ギャスケル夫人はジョルジュ・サンドやジョージ・エリオットのような 知的な作家ではないが、聡明で非常に博識な作家である。彼女はあらゆるタイ プの人間の行動と活動に強い関心を示していた。その関心は彼女の小説のみな らず、エッセイや短編小説に対しても、多くの題材を提供してくれた関心であ った。一九七八年にジェイムズ・ドナルド・バリは最近のギャスケル批評を要 約して、「彼女がヴィクトリア朝の二流の小説家たちの中でも最上の部類に入 るのは確かだが、おそらく最近は一流の部類に入りつつあるかもしれない」と いうコメントを残した。それ以来、個々の作品や短編小説が多くの版(主とし てペンギン、オックスフォード、エヴリマン各社のペーパーバック版)で、し かも著名な批評家の序文と注釈つきで利用できるようになったし、近年では極 めて詳しい伝記や研究書が陸続と出版されている。これらは彼女の名声が一流 のものとして固まるのに大いに貢献している。
※ これは、カナダのローレンシア大学エドガー・ライト (Edgar Wright, Laurentian University) 教授が、『文学伝記辞典』(Dictionary of Literary Biography [Detroit: Gale Research Inc., 1973] XXI, 174-188) のために執筆した「ギャスケル夫人 (Elizabeth Cleghorn Gaskell)」の項目を取捨選択して翻訳し、更に修正・加筆したものである。このような形の書き換えを快く許可してくださったライト教授には、この場を借りて深甚なる謝意を表したい。ギャスケル夫人のメーリング・リスト (詳しくはウェッブ・サイト http://www.lang.nagoya-u.ac.jp/~matsuoka/EG-ML.html を参照) の会員で、 貴重なコメントを寄せられるライト教授には、主著書として Mrs. Gaskell: The Basis for Reassessment (London: Oxford University Press, 1965) や The Critical Evaluation of African Literature (London: Heinemann Educational, 1973) などがある。