■イプセン『ヘッダ・ガブレル』について■テキストここでは、イプセン『ヘッダ・ガ−ブレル』原千代海訳、岩波文庫(岩波書店、1996)を使用。
■質問1 ヘッダの周りに集まる人々の関心領域は、ヘッダの女性的魅力(ブラック)、ヘッダの妊娠と出産(テスマン嬢)、執筆活動(テスマン)である。これらが別々に存在していること、これらに関して当のヘッダはまったく関心がないことがこの作品世界の特徴である。ヘッダを中心とする世界とは異なり、エイレルトとエルヴステード夫人においては、性的な要素が排除される関係のなかで、相互的な親密さが文化的創造にもよい刺激となっている。彼らのこの関係は、なお一層、観客の目に、ヘッダを生殖においても文化的にも不毛な存在として印象付ける。ヘッダは劇の後半おいて、価値ある原稿(「子ども」)を破壊し、身ごもった自分の子どもも破壊する。ヘッダの関心は狭い。この作品世界において、セクシュアリティと文化の領域を除けば、あと残るのは死の領域、死のスタイルに関するこだわりしかないように見える(「無限の美をもった行為」「こめかみを撃っている」)。この彼女の異常とも見えるこだわりはいったい何から来ているのか。
2 テスマン嬢に大きな関心を寄せる観客は少ないだろう。しかし、彼女は作品の提示部に登場し、次第に不思議な方向へと進んでゆく劇の展開の出発点となる「標準値」を構築するのに役立っている。「標準値」の一例として指摘することができるのが、テスマン嬢が示すところの身体的接近・接触である。第一幕で彼女がヘッダの頭を両手で抱え、自分のほうに引き寄せようとすると、ヘッダから拒絶される。しかし、次の場面になると、ヘッダ自身がエルヴステード夫人を利用するために、身体的接触の方法を用いる。イプセンはこの作品において、意識的に役者と役者の距離を捉え、演劇的効果に生かそうとしているのではないか。第二幕以降、身体接触のモチーフの変奏にはどのようなものがみられるか。
3 観客とヘッダとの関係は曖昧である。共感と疎外の両方が両者の関係には存在する。どのような仕掛けによって、観客は、他の登場人物たちに対する以上に、ヘッダに対して最も自己同一化するのか。この問いに対する解答は、ヘッダが最も謎めいた登場人物であることと密接に関係があると思われる。「闇(謎)」の部分をつくるためには「明」の部分が不可欠である。ここでは両極端に「明」と「暗」とをもつ物指しを考える。観客にとって、さしずめ、テスマン嬢、テスマン、ブラックは明の部分である。次に、劇の展開に従い、初めは闇として提示されるが次第に光となるのは、エルヴステード夫人とレェーヴボルクである。この二つ目のカテゴリーは「謎とその解明」と呼ぶこともできる。フィスター(Pfister)が言うところの"analytical technique"がこれに当たる。ヘッダはこの謎の解明に従事し、それゆえに、観客はヘッダと自己同一化することができる。しかし、ヘッダは探偵ではない。彼女は二人の謎を解明する努力をしながら、自分自身を謎として造形してゆくのである。 【注】フィスターとは、Manfred Pfister, The Theory and Analysis of Drama, translated by John Halliday (originally published in Germany, 1977; Cambridge: Cambridge Univ. Press, 1988)のこと。
4 この作品では、結婚と異性間の親密に関係するエピソードは、研究活動やその成果物である本のエピソードと並置され、また置換されるものとして提示される。ヘッダ自身に性欲はなさそうであるが、作品そのものも、性的エネルギーは別なものに昇華されてこそ、意味があると主張しているのであろうか。
5 ピストルが最初に言及されるとき、それは潜在意識的にせよ、観客に死を連想させるだろう。また、言及されるだけで舞台には登場しない病人のリーナは次第に死へと近づいてゆく。これらの死の連想はなぜ設けられているのか。また、ピストルはなぜ二挺あるのか。
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